後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

鉄道の旅(2)津軽鉄道とそのアテンダント

2013年06月15日 | 日記・エッセイ・コラム

津軽鉄道は1928年に出来た本州最北端の私鉄です。

津軽中里駅と五所川原駅を結ぶ20.7kmの短い路線です。津軽平野の真ん中の単線の上をジーゼルカーが走っています。

ストーブ客車や鈴虫客車などで鉄道ファンが憧れている鄙びたローカル線です。

今回、津軽鉄道の中里駅から太宰治の記念館のある金木駅まで乗りました。

その印象については観光案内をしてくれたアテンダント嬢のことを書かねばなりません。

最近の私どもの旅行といえば国内旅行です。

団体旅行が多いので観光バスには地元のガイドさんが乗っていて、その地方の観光案内をしてくれます。

地元の歴史や産業や文化の説明をしてくれるので大変重要です。ガイドさんの説明によって旅の印象が全く違ったものになります。

津軽鉄道ではアテンダントさんの説明にすっかり魅了されてしまったのです。

まず津軽弁が美しく、不思議な響きなのです。フランス語のように軽やかでカナリアのさえずりのようなのです。

全て理解出来る津軽弁だけを、注意深く選んで喋ってくれます。そして津軽文化と東隣の南部文化とはどのように違うかを分かりやすく説明してくれます。

津軽平野の豊かな水田のおかげで鷹揚な人柄の人が多く、津軽藩主には文化人が多いのです。南部は山がちで質実剛健な気風なそうです。

2輌編成のジーゼルカーが萱ぶきの大きな農家の前を通ると、アテンダントさんが、「あれが私が生まれて育った家です」と言います。そして子供の頃の楽しい思い出を少しだけ、屈託なく話すのです。苦労したことのない人のようで、品性の良い女性です。

こういう人が説明すると津軽地方の文化程度が大変高そうに感じられるから不思議です。

アテンダントは6,7人いるそうですが性格の良い人を選んでいるようです。そして津軽の文化を楽しく話して、お客さんに良い思い出を持ち帰ってもらおうという算段のようです。このような津軽鉄道の営業方針に感心して帰って来ました。

津軽鉄道に乗る時は必ずアテンダントさんを予約して乗って下さい。

下に津軽鉄道の関連の写真をしめします。

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上は中里駅から私どもが乗り込んだ「走れメロス号」です。名前は太宰治の小説の題目からとりました。

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上は運転席の横から撮った写真で、春には桜の花のトンネルになることで有名な芦野公園駅です。

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車窓の両側は何処までも続く水田です。そして遥か南の端には残雪の岩木山が輝いていました。

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上の写真は「津軽鉄道アテンダント写真集」を検索して転載した写真です。今回説明してくれた方は右から2番目の女性ですした。皆さんも顔を見ると昔風の津軽美人のようです。

津軽文化を背負った方々のようです。


20世紀の独裁者(5)ヴァチカンを独立国家にさせた独裁者ムッソリーニ

2013年06月15日 | 日記・エッセイ・コラム

ベニート・ムッソリーニは1883年にイタリア王国の田舎の靴職人の息子として生まれました。そして1921年に国家ファシスタ党の統領となり独裁者になりました。

1940年にはヒットラーと組んで日独伊軍事同盟を作り、第二次大戦では英米佛とソ連を相手に戦いました。1943年に戦争反対派のクーデターにあい、イタリアは降伏、そして1945年に共産パルチザンに逮捕され処刑されました。

彼の政策には首尾一貫性が無く、権力獲得のためには何でもしたのです。

イタリアは戦争に弱く、1943年には降伏してしまったので日本ではムッソリーニを軽蔑する風潮がありました。

日本人の記憶の残っているのは1945年に処刑された後で、ミラノに運ばれ逆さ吊りにされている写真だけです。

しかし彼は歴史に残る大きな仕事をしたのです。

それは1929年にローマ法王の住んでいる地域一帯をイタリアから分離し、独立国として認めた条約に調印したのです。調印場所はラテラノ大聖堂で、その名をとって「ラテラノ条約」と呼ばれています。

カトリックは世界中に広がっているキリスト教の一派です。

しかしその本山はイタリア王国の支配するローマのヴァチカンにあったのです。従ってローマ法王は代々イタリア人がなっていました。

その歴史を変えたのがラテラノ条約だったのです。ローマ法王はイタリアの法律に規制されなくなり真に自由な信仰が保障されたのです。

後にポーランド人のヨハネパウロII世とドイツ人のベネデクト16世とブラジル人のフランシスコがローマ法王に就任したのもムッソリーニの作ったラテラノ条約の影響があったと思います。将来はアジアやアフリカからのローマ法王が現れるかも知れません。

さてそれはそれとして、ムッソリーニは敬虔なカトリックだったのでしょうか?

答えは否です。カトリックを装ったひどい無宗教者でした。権力を手中に収めるために敬虔な信者のふりをしていたに過ぎません。

彼の母は敬虔なカトリッ信者で、息子を幼児洗礼させたのです。しかし父は絶対にミサへ行かない唯物論者で社会主義者でした。

学校は母の言いつけでカトリック系の学校へ通いましたが、青年期になると無神論者になり、キリスト教を激しく嫌悪しました。

ムッソリーニの言った言葉が残っています。「神など居るわけもなく、キリストはただの馬鹿で精神異常者だったことは明らかだった」などと仲間うちでは口汚く罵っていたのです。

しかし公の場面ではミサにも時々参加して、ヴァチカンを独立国として公認して、イタリアのカトリック信者の拍手喝采を浴びたのです。

しかし彼は身内の仲間にはイタリアの癌は教会だと言い、罵倒していたのです。

そんな彼を処刑したのは皮肉にも唯物論の共産主義者のパルチザン隊だったのです。彼の遺体は1957年に改葬され、カトリック教会で改葬のミサが行われたのです。

イエス様はムッソリーニが罵倒するのを見下ろしながら、「彼は自分が何をしているのか分からないのだ」と言っていたのです。

下にムッソリーニに関連した写真を示します。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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上は1923年に独裁権を確立したイタリアの議会の様子を示す写真です。

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上は1943年に反対派のクーデターに会い失脚し、アペニン山中からヒットラー親衛隊によって救出された時のムッソリーニ(黒服、黒帽子)です。

この後ドイツと共に戦いましたが共産パルチザンに逮捕されて1945年に処刑されました。

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ムッソリーニはヒットラーのように大多数のユダヤ人やロシア人やフランス人を殺戮しなかったので戦後イタリアでは尊敬している人も多いそうです。上の写真はムッソリーニ顔のラベルを貼ったイタリアワインの写真です。日本人は直接関わり合い無かったせいで、何故か憎めない男です。