後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

複雑怪奇なスペイン内戦の、明快至極な説明を見つけました!

2013年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログでは、「20世紀の独裁者」という連載記事をすでに5回掲載しています。

第6回目は1939年から1975年までの46年間スペインに君臨していた独裁者、フランコ将軍を取り上げる予定です。

そこで1936年から1939年まで続いたスペインの内戦を調べています。

するとこの内戦ほど複雑怪奇な争いが、他に無いことに気がつきました。

1931年に王制を廃止した共和政府が共産政府、それに対してクーデターを起こして戦ったフランコ側が右翼と理解してみました。そして、「共産主義と、それを嫌うファシストのフランコ軍の戦争」と理解すると、それは大雑把過ぎて大変大きな間違いが起きそうです。

そこでいろいろ調べていたら複雑怪奇なスペイン内戦の明快至極な説明を見つけましたのです。

それは裏辺金好氏による膨大、かつ精緻な研究結果のブログの「スペイン内戦」の項目にありました。URLは、http://www.uraken.net/rekishi/reki-sekai006.htmlです。

読みやすい明快な日本語です。複雑なスペイン内戦の実態が見事に整理されて分かりやすく掲載されています。以下にその抜粋文を2つ示します。

=====スペイン内戦の概要============

その直接の前兆は、1931年4月、世界恐慌を背景に国王アルフォンソ13世が社会主義者・共和派の反体制運動により倒され第2共和制が始まった時から始まる。33年11月の選挙で右翼が勝利するが、1936年2月の総選挙で、それまでの右翼政権に勝つため、共和左派、社会党、共産党など、反右翼勢力すべてからなる結成された「人民戦線」が、何とか勝利した。         

 ところが、これが新たな対立を呼び、右翼と左翼による争いが一段と激化した。それを政府に収拾する能力はなく、7月にモラ将軍を指導者として軍部右派のクーデタが発生。が、これは政府の抵抗と、軍部右派の足並みがそろわず失敗。だが翌月フランコ将軍率いるモロッコ駐留軍が、スペイン領の北部モロッコより本土に侵攻。         

 何故、政府がこれを未然に阻止できなかったかは謎となっているが、とにかく、軍部内は共和国支持派と反乱軍支持派に分裂し、いろいろな利害も絡み、北西部のフランコの反乱を支持する地域と東部および北部の共和国政府を支持する地域にわかれ、内戦状態に突入した。これに対し、イギリス・フランスなどのヨーロッパ各国政府は同年8月初め、この内戦に不干渉することを決定した。が、ドイツとイタリアは、しっかりその約束を破る。まあ、不干渉は条約でなかったが。

           さて、スペイン国内において反乱軍を支持したのは、王党派や保守派、社会的には教会の一部、地主層などの富裕層で、共和国支持派は、共和制支持者や左翼政党、労働者、バスクやカタルニャの自治を主張するグループであった。ただし、あくまで「基本的には」であり、実際は、同じ立場の人々でも両派に別れている場合が多い。 

           36年9月29日、トレドを陥落させ名声を得たフランコは「国家主首席」「軍司令長官」の座を獲得し、後の独裁の足場を作った。この時、モラ将軍は北部で活躍していたが、フランコの下につかざるをえなかった。

           また、反乱軍はすでに兵員の輸送のために、ドイツやイタリアから航空機の援助をうけていたが、36年11月ごろからドイツ軍やイタリア軍の部隊が直接に参加するようになった。

           一方の共和国軍に対してはソ連が軍事物資と顧問を派遣。これは共産党の勢力を伸ばそうと画策されたものであり、このため社会党VS共産党の骨肉の争いという内戦の中の内戦を引き起こすことにもなる。共和国に対しては、他に国際共産党機関「コミンテルン」より国際旅団(国際義勇軍)が派遣された。55ヶ国4万人ほどの青年と、2万人に及ぶ医療関係者からなる。隊員の85%が共産党員であり、またその出身階層を見るとインテリが45%、労働者44%などとなっている。これについては別に述べる。

           36年秋の反乱軍による首都マドリードへの攻撃は、共和国軍の反撃で挫折したために、フランコの独断で、共和国側が支配している地域を少しずつ侵食する作戦をとった。

           37年4月19日、フランコはミニ政党ファランヘ党を母胎に「国家組合主義攻勢委員会のスペイン伝統主義ファランヘ党」という長たらしい名前の政党を組織し、その党首に就任した。これがその後のフランコ独裁の翼賛を担う。
           
            37年4月26日にはドイツ軍がスペイン北部のビスカヤ県ゲルニカにおいて、一般市民に対し空爆を行うという大惨事を起こす。ピカソの「ゲルニカ」で一躍有名になったが、しかし南に位置するドゥランゴではさらに大規模な空爆が行われた。しかし、これは大して話題になっていない。さらに、ゲルニカはバスク軍の軍事上の要所でもあり、爆撃されても、まあ仕方ないとも言えたのである。両方注目されるなら別として、ゲルニカだけ問題になる・・・絶対におかしいよ、それは。

           さて、そんな中でも共和国内の共産党は、ライバルを排除し主要ポストの独占に走るなど、わざわざ味方の離反を招くような行動をとる。37年5月には、バルセロナにおいてアナキスト(無政府主義)系の全国労働連合(CNT)・反共産党系のマルクス主義者労働党(POUM)と、共産党が市街戦を繰り広げた。

           これは、500人の死者を出しながらもCNTの自制で終結するが、共産党はこれを契機に他の組織の取りつぶしにかかる。「フランコのスパイ」「トロツキー派だ」とレッテルを貼り、次々と粛清を行った。そして、社会党のラルゴ内閣を倒閣させ、生理学者の世界的権威ファン・ネグリンを首相とする共産党内閣を成立させ、内戦を継続する。ただし、ネグリン自身は社会党だから、全くややこしいこと限りない。

           一方、フランコ側でも、モラ将軍が飛行機事故で謎の死を遂げる。フランコの陰謀かもしれないし、そうでないかもしれない。が、フランコにとって目障りな人物が1人減ったことは確かだった。・・・・・以下省略

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ヘミングウエイなどの知識人が参加した国際旅団(国際義勇軍)の実態はソ連のコミンテルが直接送り込んだ共産党軍隊だったの明快に説明しています。

こう書いてくれると何故、ヒットラーやムッソリーニが武器弾薬をフランコへ送り、爆撃機で支援したかが分かります。共産化を恐れたイギリスやフランスが国際旅団を支持せず中立を守った理由も明快になります。

以下にその部分を抜粋して転載しますが、文中に日本からただ一人参戦したジャック石井の話も出て来ますが、彼のことは石垣綾子が本を出して紹介しています。

====国際旅団(国際義勇軍)===============

ヘミングウェイなどが参加したことで有名な、スペイン共和国を救うべく結成された国際旅団。これは国際共産党機関「コミンテルン」より派遣されたもので、36年11月の8日のマドリード防衛戦で初陣を飾った。ただし、ろくな訓練を受けていないため、戦闘では多くの死傷者をだすことになる。この中には日本人ジャック白井(函館かその付近の出身。ニューヨークでコックをしていた)もいた。彼は37年7月11日に戦死している。

           さて、必死に戦った彼らの敵は内にもいた。37年5月のバルセロナ市街戦以降、共産党によるトロツキー派狩りが行われ、500名が処刑された。実際にトロツキー派がいたかは解らない。

           そんなこんなで、38年11月15日、共和国のネグリン大統領は、ソ連の承認を得て彼らを解散させた。だが、帰国先で待っていたのは西欧での「赤狩り」と東欧での「トロツキー派狩り」。だが、そんな中で彼らはリンカン旅団元兵士の会(アメリカ)などの組織を作り、未帰還兵の家族の支援や反フランコ闘争の支援などを行い、精力的に活動した。スペイン内乱勃発から50年に当たる1986年には、マドリードで「国際旅団の賛歌」という大会を開き、元義勇兵1000人ほどが参加した。

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世の中には頭脳明晰な方がいるものです。この裏辺金好氏は抜群に素晴らしい頭脳の持ち主です。しかし自分が理解しただけでなく、理解したことを咀嚼吟味して、素人にも分かるように明快に書いてくれるのです。こいう人を本物の学者と言います。

是非、彼のブログの他の部分もご覧下さい。その項目の多さと研究の完璧さに感動すると信じています。あまりにも明快なブログなのでご紹介いたしました。(終わり)


長崎県にあるカトリック教会の写真をお送りします。

2013年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム

長崎県は日本のカトリックの揺籃の地です。隠れキリシタンが250年の厳しい禁教にもかかわらず信仰を守り続けた土地です。

今日は日曜日なのでミサに出て、その長崎地方の教会の写真を掲載しようと心に決めて帰って来ました。

写真はいろいろな所から借りることが出来ますが、今日は長崎に住んでいらっしゃる江島達也さんのブログ、「アトリエ工隼 仕事日記」http://hayabusa-3.dreamlog.jp/)からお借りすることにしました。

このブログは実に心温まる内容の写真と記事が沢山載っています。まだお若いようですが悠々たる人生の過ごし方をなさっています。読めば心が明るくなると思いますので、是非ご一読下さい。

今日、ご紹介する教会は昭和6年に建てられ戦災をまぬがれた佐世保市の巨大なカトリック三浦教会と新上五島町のカトリック中の浦教会です。

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上は昭和30年ごろの佐世保駅近くにある巨大なカトリック三浦教会です。下は現在の教会を江島さんが見上げて撮影したものです。

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そして下は新上五島町のカトリック中の浦教会です。江島さんが撮影した写真です。

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今日のミサの間に、

このブログを見て下さる皆様の平安とご健康をお祈りしてきました。(終わり)


ピカソの「ゲルニカ」と、ヘミングウエイの「誰がために鐘は鳴る」

2013年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム

共和国として平和だったスペインで、1936年から1939年の3年間にわたって内戦が続き、国土が荒廃しました。左派の人民戦線派とフランコが率いる右派の軍人部隊が激しく戦ったのです。

ソ連やメキシコが左派軍を支援し、それに加えて欧米の自由主義者が数多く志願兵として人民戦線側に参加しました。

一方、独裁国のドイツとイタリアは軍人部隊の右派を支援し、1937年にはドイツの爆撃機が人民戦線側が占領していたゲルニカという町を徹底的に爆撃したのです。

結局、フランコ軍が勝利してフランコ独裁政治がその後1975年まで36年間続くのです。

その爆撃されたゲルニカを描いたのがピカソのゲルニカという黒一色の絵画です。下に示します。

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一方、ヘミングウエイはスペイン内戦で左派人民戦線側に志願した男の悲劇的なラブロマンスを書いた小説、「誰がために鐘は鳴る」を1939年に出版しました。

それは大戦中の1943年にゲイリー・クーパーとイングリット・バーグマンの主演で、アメリカで映画化され、日本では戦後に上映されました。以下にその関連の写真を示します。

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この映画は日本では単なる悲しい結末の恋愛を描いた娯楽映画として楽しまれました。しかし映画の政治的内容は自由主義陣営が独裁主義者へ勇敢に戦うという内容です。自由な国、アメリカが独裁国、ドイツと大戦争をしている最中の1943年のアメリカで作られた映画なのでず。

いろいろな勢力が外国から加わった1936年から1939年のスペイン内戦は複雑な事情があり、日本ではあまり知られていません。

しかしそれは第二次世界大戦の前哨戦として重要な意味を持っていると思います。このスペイン内戦の時、ローマ法王はどのような姿勢をとったのでしょうか。

私は興味深いヨーロパの歴史と一駒と思っています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====映画のあらすじ====================

反ファシスト軍としてスペイン内戦に参加したロバート・ジョーダンは戦略上重要となる橋梁を爆破する任務を背負い、パブロが率いるゲリラ隊に協力を求めた。そしてゲリラ隊にかくまわれていたファシストに両親を殺された娘マリアと知り合い、恋に落ちた。やがて、彼は作戦を進めていくうちに、敵の作戦が変更となり、自分の任務である橋梁の爆破が無意味になることを知った。しかし連絡の不備から作戦は中止されず、彼は無駄になったことを知りながら橋梁を爆破し、瀕死の重傷を負い、仲間を逃がして自分は死に臨んだ

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スペイン内戦の両軍の構成:

共和派(左派)

  • スペインの旗 スペイン共和国
    • Flag of the Popular Front (Spain).svg 人民戦線
    • Bandera CNT-AIT.svg CNT(全国労働者連合)・FAI(イベリア・アナーキスト同盟)
    • Socialist red flag.svg UGT(労働総同盟)
    • Estelada blava.svg ERC(カタルーニャ左翼共和党)・EC
    • Flag of the Basque Country.svg EG(バスク軍) (1936年 - 37年)
    • Bandeira galega civil.svg PG(ガリシア党)

ナショナリスト派(右派)