このブログでは、「20世紀の独裁者」という連載記事をすでに5回掲載しています。
第6回目は1939年から1975年までの46年間スペインに君臨していた独裁者、フランコ将軍を取り上げる予定です。
そこで1936年から1939年まで続いたスペインの内戦を調べています。
するとこの内戦ほど複雑怪奇な争いが、他に無いことに気がつきました。
1931年に王制を廃止した共和政府が共産政府、それに対してクーデターを起こして戦ったフランコ側が右翼と理解してみました。そして、「共産主義と、それを嫌うファシストのフランコ軍の戦争」と理解すると、それは大雑把過ぎて大変大きな間違いが起きそうです。
そこでいろいろ調べていたら複雑怪奇なスペイン内戦の明快至極な説明を見つけましたのです。
それは裏辺金好氏による膨大、かつ精緻な研究結果のブログの「スペイン内戦」の項目にありました。URLは、http://www.uraken.net/rekishi/reki-sekai006.htmlです。
読みやすい明快な日本語です。複雑なスペイン内戦の実態が見事に整理されて分かりやすく掲載されています。以下にその抜粋文を2つ示します。
=====スペイン内戦の概要============
その直接の前兆は、1931年4月、世界恐慌を背景に国王アルフォンソ13世が社会主義者・共和派の反体制運動により倒され第2共和制が始まった時から始まる。33年11月の選挙で右翼が勝利するが、1936年2月の総選挙で、それまでの右翼政権に勝つため、共和左派、社会党、共産党など、反右翼勢力すべてからなる結成された「人民戦線」が、何とか勝利した。
ところが、これが新たな対立を呼び、右翼と左翼による争いが一段と激化した。それを政府に収拾する能力はなく、7月にモラ将軍を指導者として軍部右派のクーデタが発生。が、これは政府の抵抗と、軍部右派の足並みがそろわず失敗。だが翌月フランコ将軍率いるモロッコ駐留軍が、スペイン領の北部モロッコより本土に侵攻。
何故、政府がこれを未然に阻止できなかったかは謎となっているが、とにかく、軍部内は共和国支持派と反乱軍支持派に分裂し、いろいろな利害も絡み、北西部のフランコの反乱を支持する地域と東部および北部の共和国政府を支持する地域にわかれ、内戦状態に突入した。これに対し、イギリス・フランスなどのヨーロッパ各国政府は同年8月初め、この内戦に不干渉することを決定した。が、ドイツとイタリアは、しっかりその約束を破る。まあ、不干渉は条約でなかったが。
さて、スペイン国内において反乱軍を支持したのは、王党派や保守派、社会的には教会の一部、地主層などの富裕層で、共和国支持派は、共和制支持者や左翼政党、労働者、バスクやカタルニャの自治を主張するグループであった。ただし、あくまで「基本的には」であり、実際は、同じ立場の人々でも両派に別れている場合が多い。
36年9月29日、トレドを陥落させ名声を得たフランコは「国家主首席」「軍司令長官」の座を獲得し、後の独裁の足場を作った。この時、モラ将軍は北部で活躍していたが、フランコの下につかざるをえなかった。
また、反乱軍はすでに兵員の輸送のために、ドイツやイタリアから航空機の援助をうけていたが、36年11月ごろからドイツ軍やイタリア軍の部隊が直接に参加するようになった。
一方の共和国軍に対してはソ連が軍事物資と顧問を派遣。これは共産党の勢力を伸ばそうと画策されたものであり、このため社会党VS共産党の骨肉の争いという内戦の中の内戦を引き起こすことにもなる。共和国に対しては、他に国際共産党機関「コミンテルン」より国際旅団(国際義勇軍)が派遣された。55ヶ国4万人ほどの青年と、2万人に及ぶ医療関係者からなる。隊員の85%が共産党員であり、またその出身階層を見るとインテリが45%、労働者44%などとなっている。これについては別に述べる。
36年秋の反乱軍による首都マドリードへの攻撃は、共和国軍の反撃で挫折したために、フランコの独断で、共和国側が支配している地域を少しずつ侵食する作戦をとった。
37年4月19日、フランコはミニ政党ファランヘ党を母胎に「国家組合主義攻勢委員会のスペイン伝統主義ファランヘ党」という長たらしい名前の政党を組織し、その党首に就任した。これがその後のフランコ独裁の翼賛を担う。
37年4月26日にはドイツ軍がスペイン北部のビスカヤ県ゲルニカにおいて、一般市民に対し空爆を行うという大惨事を起こす。ピカソの「ゲルニカ」で一躍有名になったが、しかし南に位置するドゥランゴではさらに大規模な空爆が行われた。しかし、これは大して話題になっていない。さらに、ゲルニカはバスク軍の軍事上の要所でもあり、爆撃されても、まあ仕方ないとも言えたのである。両方注目されるなら別として、ゲルニカだけ問題になる・・・絶対におかしいよ、それは。
さて、そんな中でも共和国内の共産党は、ライバルを排除し主要ポストの独占に走るなど、わざわざ味方の離反を招くような行動をとる。37年5月には、バルセロナにおいてアナキスト(無政府主義)系の全国労働連合(CNT)・反共産党系のマルクス主義者労働党(POUM)と、共産党が市街戦を繰り広げた。
これは、500人の死者を出しながらもCNTの自制で終結するが、共産党はこれを契機に他の組織の取りつぶしにかかる。「フランコのスパイ」「トロツキー派だ」とレッテルを貼り、次々と粛清を行った。そして、社会党のラルゴ内閣を倒閣させ、生理学者の世界的権威ファン・ネグリンを首相とする共産党内閣を成立させ、内戦を継続する。ただし、ネグリン自身は社会党だから、全くややこしいこと限りない。
一方、フランコ側でも、モラ将軍が飛行機事故で謎の死を遂げる。フランコの陰謀かもしれないし、そうでないかもしれない。が、フランコにとって目障りな人物が1人減ったことは確かだった。・・・・・以下省略
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ヘミングウエイなどの知識人が参加した国際旅団(国際義勇軍)の実態はソ連のコミンテルが直接送り込んだ共産党軍隊だったの明快に説明しています。
こう書いてくれると何故、ヒットラーやムッソリーニが武器弾薬をフランコへ送り、爆撃機で支援したかが分かります。共産化を恐れたイギリスやフランスが国際旅団を支持せず中立を守った理由も明快になります。
以下にその部分を抜粋して転載しますが、文中に日本からただ一人参戦したジャック石井の話も出て来ますが、彼のことは石垣綾子が本を出して紹介しています。
====国際旅団(国際義勇軍)===============
ヘミングウェイなどが参加したことで有名な、スペイン共和国を救うべく結成された国際旅団。これは国際共産党機関「コミンテルン」より派遣されたもので、36年11月の8日のマドリード防衛戦で初陣を飾った。ただし、ろくな訓練を受けていないため、戦闘では多くの死傷者をだすことになる。この中には日本人ジャック白井(函館かその付近の出身。ニューヨークでコックをしていた)もいた。彼は37年7月11日に戦死している。
さて、必死に戦った彼らの敵は内にもいた。37年5月のバルセロナ市街戦以降、共産党によるトロツキー派狩りが行われ、500名が処刑された。実際にトロツキー派がいたかは解らない。
そんなこんなで、38年11月15日、共和国のネグリン大統領は、ソ連の承認を得て彼らを解散させた。だが、帰国先で待っていたのは西欧での「赤狩り」と東欧での「トロツキー派狩り」。だが、そんな中で彼らはリンカン旅団元兵士の会(アメリカ)などの組織を作り、未帰還兵の家族の支援や反フランコ闘争の支援などを行い、精力的に活動した。スペイン内乱勃発から50年に当たる1986年には、マドリードで「国際旅団の賛歌」という大会を開き、元義勇兵1000人ほどが参加した。
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世の中には頭脳明晰な方がいるものです。この裏辺金好氏は抜群に素晴らしい頭脳の持ち主です。しかし自分が理解しただけでなく、理解したことを咀嚼吟味して、素人にも分かるように明快に書いてくれるのです。こいう人を本物の学者と言います。
是非、彼のブログの他の部分もご覧下さい。その項目の多さと研究の完璧さに感動すると信じています。あまりにも明快なブログなのでご紹介いたしました。(終わり)