後藤和弘のブログ

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太宰治が死んで悲しむ5人、その三(完結編);妻、美知子、長兄、文治、愛人、静子、それぞれの苦悩と悲し

2013年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログでは 「太宰治が死んで悲しむ5人」という題目で井伏鱒二、子守だった越野タケ、兄の津島文治、妻、津島美知子、そして愛人だった太田静子について私自身の断片的な感想を書いています。なるべくそれぞれの立場から見た太宰治への想いを書きたいと思っています。

 津島家の当主としての長兄、文治は太宰の数々の恥じさらしな事件の後始末に翻弄されました。

 昭和23年に太宰が死んで一番ホッとしたのは文治だったと思います。 

しかし自分が青森県知事として、あるいは衆議院や参議院の議員として活躍し、年月が流れるにしたがって不幸な弟への思いは変わっていった筈です。 

嫌なことは年月とともに次第に忘れ、39歳の若さで夭折した実弟の憐れさを感じた筈です。なにせこの弟ほど自分を頼りにした人はいなかったのです。 

可愛いと思うからこそ最後までその生活の面倒をみたのです。その可愛いさを思い出すと他人へは言えない悲しみを感じていたに相違ありません。その悲しみは年月とともに深まった筈です。 

そのようなことは、太宰治記念館、「斜陽館」と兄、津島文治の苦悩 という記事で一部書いたつもりです。 

今日の記事は、下のような2つの記事の続編で、かつ完結編です。 

太宰治が死んで悲しむ5人、その一;恩人、井伏鱒二の悲しみ 

太宰治が死んで悲しむ5人、その二;子守の越野タケさんの困惑と悲しみ 

さて、ここで一番書きにくい妻、美知子と愛人、大田静子の苦しみと悲しみを取り上げないわけにはいけません。 

この二人は立場が違います。美知子は井伏鱒二の媒酌で結婚した名家出身の女性です。一方、静子も育ちの良い文学少女で、「太宰の愛人」の一人だったのです。 

私は美知子夫人へ同情を禁じ得ません。しかし慰める言葉もありません。 

悲しみの深さ、無念さを考えると何も言えません。 

何と言っても一番苦労したのは奥さんでしょう。女としてこのような男と結婚した不幸なほど悲惨なものはありません。見合いをさせ媒酌人になり自宅で結婚式披露宴をした井伏鱒二さんも一生悲しみ、負い目に思っていたに相違ありません。

この妻の美知子は心中事件のあと30年経過してからやっと、「回想の太宰治」という本を出しています。

一方、大田静子は太宰治に関する本を一切出していません。 

太宰治の死後すぐに井伏鱒二らが静子を訪問して「斜陽」の印税、10万円を渡したのです。実は、「斜陽」の物語は静子が提供した日記通りだったのです。 

そして井伏鱒二は静子が今後一切、太宰に関することを書かないという誓約書を取ったのです。 

一方、太宰の死後、税務署の発表した課税対象の遺産が何億円あったという噂が世間に流れています。 

太宰の本妻の娘、次女里子(津島佑)子と、愛人の娘、治子も作家として世に出ております。 

しかし津軽に行ってみると長女園子の夫の津島雄二さんが衆議院として地元の為に尽くしているので評判が良いようです。地元ではまだ太宰の「恥さらし」については沈黙です。津島文治さんや津島雄二さんについては自慢げに話しをしますが、それ以外のことは話しません。 

この連載で取り上げた5人とも既に旅立っています。?会一処です。 

それにしてもこの世の苦しみと悲しみは底知れぬ海のように深いものです。 

私も、これで、やっと太宰治から解放されました。疲れました。 

下の写真は左から右へ順に新婚時代の美知子と太宰、長兄、津島文治、そして愛人、大田静子です。それぞれの画像集検索から選んだ写真です。

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

===以下の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B3%B6%E6%96%87%E6%B2%BB ===

津島 文治(つしま ぶんじ、1898年1月20日 ? 1973年5月6日)は日本の政治家。

作家の太宰治(津島修治)は弟、俳優の津島康一は長男。元衆議院議員の津島雄二は、義理の甥にあたる。

1923年3月3日、大学を卒業。翌日に父が急死したため、津島家の家督を継ぐ。1925年、金木町長に選ばれ、2年間務める。1927年、青森県議選で最高位当選を果たし、最年少の県議となり、2期を務める。

1930年11月、弟修治(太宰)がカフェの女給田部シメ子と心中未遂事件を起こし自殺幇助容疑で鎌倉警察署に逮捕された時には、担当刑事が金木出身で津島家の小作の息子だったことや、管轄の横浜地裁の所長が黒石市出身で父源右衛門の姻戚だったことを利用し、自らの政治的影響力を行使して、修治を起訴猶予処分に持ち込んだ。

1937年4月30日、立憲政友会から衆議院議員選挙に初めて立候補。その若さや家柄から「青森県の近衛公」と呼ばれ、将来を嘱望される。5月1日に開票、第2位で当選するも、5月4日に選挙違反の容疑で五所川原警察署に逮捕される。

1945年7月、疎開先の甲府で空襲にあった修治の一家を自邸に迎える。

1946年、進歩党から戦後初の衆院選に立候補。修治も背広にリュックサック姿で選挙運動に協力。同年4月10日の選挙において、全県一区(大選挙区制)定員7名中6位で当選。公務のため上京し、東京に住む。

1947年、青森県知事に就任(初代民選知事)。以後、3期(9年余)を務めた。十和田湖湖畔の裸婦像(「乙女の像」)は、津島が高村光太郎に依頼して制作されたものである。1948年、弟・修治が自殺。

1958年から衆議院議員として2期を務め、1965年から参議院議員として2期半余を務めた。なお、その間は自由民主党に所属していた。

1973年5月6日死去。享年75。

私生活では弟・修治(太宰治)の型破りな性格のために衝突をしばしば繰り返した。そのため、弟の自殺後にその名声が高まって文豪に加えられていく世間の状況には困惑していたという。

===以下の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B3%B6%E7%BE%8E%E7%9F%A5%E5%AD%90 =

妻、津島美知子:

1947年(昭和22年)3月、次女里子を生む(後の作家津島佑子)。

1948年(昭和23年)6月、太宰が死去。12月、大家から立ち退きか買い取りかの二者択一を迫られて東京都北多摩郡三鷹町(現・三鷹市)を去り、東京都文京区駒込曙町(現・本駒込1丁目)に転居。

1949年(昭和24年)8月、文京区駒込蓬莱町(現・向丘2丁目)に転居。1958年(昭和33年)8月、文京区駕籠町(現・本駒込6丁目)に転居。

1960年(昭和35年)2月、正樹が肺炎で死去。享年15。

1964年(昭和39年)、園子が大蔵官僚の上野雄二(当時、大蔵省から外務省に出向中。後に衆議院議員)を婿に迎える。

1978年(昭和53年)、人文書院から『回想の太宰治』を上梓。

1997年(平成9年)2月1日、心不全で死去。遺体は、太宰の亡骸が眠る三鷹市禅林寺に葬られた。

===以下の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E9%9D%99%E5%AD%90 ======

愛人、大田静子

1947年5月24日、生まれてくる子の相談で通と共に三鷹の太宰宅を訪問。太宰からの冷たい態度に傷つき、自分に接近してきたのは小説の材料だけが目当てだったのではないかとの疑念を抱く。このとき、山崎富栄と鉢合わせする。5月25日、肝心の相談から逃げまわる太宰の態度に対して涙ながらに抗議。静子をモデルに描いた太宰作の油絵を贈呈されて下曾我に帰る。この日が、生きた太宰を見た最後となる。

1948年(昭和23年)6月13日、太宰が愛人山崎富栄と入水自殺。8月1日、井伏鱒二たちの訪問を受け、「太宰の名誉作品に関する言動を一切慎む」という内容の誓約書を取られ、その引換に『斜陽』改装版の印税10万円を渡される。

=====(完結)=======================


2 コメント

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おはよう御座います (名無し)
2017-06-23 06:17:58
某月某日私は東神奈川の駅ホームでどこかで見覚えのある女性を目撃しました、上下黒っぽい服装のスカート姿の女性こそあの太宰治の忘れ形見の太田治子さんでした。そして昨日私が住む街に疲れ切った姿で帰宅してのを再度目撃しました。大変疲弊した様子で紺色の地味な服装でしたからまさか作家を生業とした華やかさは感じませんでしたが何だか何かに悩まれているかのように推察しました。とても作家を生業としているようには全然見えませんでした。(猫街多摩地域にて)
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写真が… (Unknown)
2018-12-23 21:15:53
太田静子さんの写真がちょっと違いますよ。
その方は静子さんの娘さんで作家の太田治子さんですよ。
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