後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

共産国家、キューバ本土あるに不思議なアメリカ海軍基地の存在

2013年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム

アメリカと犬猿の仲にある共産主義のキューバ本土のグアンタモナ州の湾に1903年以来、アメリカ海軍基地があるのです。

それは日本人には考えられない不思議なことです。

下にキューバ本土の地図でその位置を示します。

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下にグアンタモ湾の詳細図を示します。

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湾の下半分が米軍基地です。下にその衛星写真を示します。

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上の写真で矢印の細い線の内側がアメリカ海軍の基地です。基地の周囲は危険な地雷原になっていて通行が遮断されています。
この基地は1903年のアメリカとスペインの戦争でアメリカが勝利したときにアメリカが手に入れたのです。その時、キューバの独立をアメリカが支援したので、独立後のキューバはこの116平方キロメートルの土地を永久、無期限にアメリカの租借地にして提供したのです。

租借料は年間やく4000ドル(やく40万円)です。

カストロはこの租借は非合法として非難して、租借料の受け取りを拒絶しています。

この基地の主権はキューバにありますが米軍が実効支配しているので軍の法規と軍法だけが適用される不思議な土地です。

20世紀後半からキューバやハイチの密航者を逮捕した場合の収容所としても使用していましたが、近年にはアフガニスタンやイラクで拘束された者を収容し、拷問にかけていたとう報道が流れていました。

オバマ大統領は2008年の大統領選挙の折りにこの収容所施設を閉鎖すると言っていましたが、保守的な議員の反対にあい、いまだに閉鎖されていません。

当然、カストロ議長にとっては目の上のコブであり不愉快千万ですがどうしようも無いのです。

仮に武力占領すれば首都、ハバナが米軍機の絨毯爆撃にあい、キューバ全土がアメリカ海兵隊に蹂躙されるのは明らかです。

アメリカはキューバ全土を軍事占領する正当な理由が欲しいのです。それを知っているからこそカストロ議長は手も足も出せないのです。

話は変わりますがイギリスの香港の租借は2000年までと期間が限定されていたのです。サッチャー首相が鄧小平に期間の延期の可能性を打診した時、鄧小平はニベも無く断ったそうです。無理に延期するなら人海戦術で香港を即時占領すると言い放ったという噂さえ流れていました。

それにしてもカリブ海にはいまだにヨ-ロッパの植民地や自治領が散在していて日本人には理解し難い地域です。困ったものです。(終わり)


20世紀の独裁者(2)親日家フィデル・カストロとヨハネ・パウロII世

2013年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム

フィデル・カストロは1958年にキューバ革命に成功し、それ以来2008年まで国家元首として独裁政治を続けたのです。2008年に実権は弟のラウル・カストロに譲りましたが現在も存命しています。まさしく20世紀の独裁者の一人だったのです。

彼は1926年にキューバの裕福なスペイン系の農園で生まれました。学校教育はイエズス会運営の学校で受けたカトリック信者でした。少年のころは野球に熱中し、スポーツが好きだったといいます。

あまりにも裕福な農園に生まれたのが、後に共産主義へ傾倒する原因になったのかも知れません。

1958年に革命に成功しますが、その共産主義独裁者は自分が育った農園を没収してしまい共産主義の集団農場にしてしまうのです。これには母親が激怒し、それ以後、両親とは絶交状態になります。

さて日本との関係を振りかえって見ましょう。

カストロの側近のチェ・ゲバラが、1959年に日本を訪問し、広島の原爆犠牲者慰霊碑へ献花しました。それ以来キューバは日本と暖かい関係を持とうとします。

フィデル・カストロは野球が好きで日本の野球にも関心が深く、日本野球連盟の元会長の山本英一郎さんとは親友でした。氏の逝去の時にはわざわざ弔電を打ってきました。

1989年の昭和天皇崩御の時には喪に服しました。

2003年には念願の日本訪問をはたし、広島の原爆犠牲者の慰霊碑に献花しました。そして、「この慰霊碑に献花するのは人類の一人としての責務だ」という意味の言葉を残しています。

彼は 日本が好きで尊敬していたのです。

しかしキューバは激しくアメリカに対峙し続けていたのです。

ケネディー大統領の時代にはソ連の核兵器をキューバに導入しようとして「キューバ危機」を起こしたのです。幸いソ連のフルチョフが折れて核兵器配備を断念したので戦争にはなりませんでした。

このようにキューバとアメリカの対立関係だったので、米ソ間の冷戦の厳しかった時代には、アメリカの感情に逆らってまで日本はキューバと友好関係は作れなかったのです。

フィデル・カストロは共産主義者でした。そしてキューバはソ連の手厚い経済援助を受けていたのです。当然、ソ連と同じ全ての私的財産の国有政策や宗教弾圧を実行しました。

上にも書いたように、彼の学校教育はイエズス会の運営する学校で受けました。当然、キリスト教のことは熟知していたカトリックだったのです。

しかし南米の貧しい階級の悲惨な状態を宗教が改善出来ないのをみて共産主義に走ったのです。

アメリカの傀儡のバチスタ政権を1959年に倒して、共産党独裁政権を樹立すると厳しいキリスト教弾圧を進めたのです。カトリック教会を破壊し、信者は逮捕し、労働キャンプへ送ったのです。その結果、革命前は国民の70%がカトリック信者だったのに、弾圧後は40%まで減少したのです。

こんな状態に転機を与えたのがローマ法王のヨハネ・パウロII世でした。

1962年にローマ法王ヨハネ23世はカストロを破門したのです。

それを救ったのがヨハン・パウロII世でした。彼はアメリカがキューバとの通商を禁じ、経済制裁を続行しているのはいけないと非難したのです。

カストロは1992年にキリスト教の弾圧の手を緩め始めました。

1996年にはカストロはヨハネ・パウロII世に謁見し、宗教弾圧の放棄を約束したのです。

1998年、ヨハネ・パウロII世はキューバを訪問たのです。

それ以後、キューバではクリスマスが再び国の祝日になります。

そして2005年4月のヨハネ・パウロII世の帰天の時には、カストロは46年ぶりにカトリック教会でのミサに参列したのです。そのミサはバハマ大聖堂でのヨハネ・パウロII世の追悼ミサだったのです。

私はこの文章を書きながら、やはりヨハネ・パウロII世は偉大だったとつくずく思います。ポーランドのワルサ議長を訪問しポーランドのソ連からの独立を精神的に支援したことや、日本の長崎まで巡礼の旅に来たことなどを思い出しています。

下にキューバ関連の写真とヨハネ・パウロII世の写真をしめします。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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・上はキューバの首都、ハバマ市の遠景です。

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上は再び南米の革命戦へ出発するチェ・ゲバラ(右)と別れを惜しんでいるカストロ(左)の写真です。

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上はインドのマザー・テレサを訪問した折のヨハネ・パウロII世の写真です。