後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今年の庭のアジサイの美しい色合い

2013年06月08日 | 写真

今年は気のせいか庭のアジサイの花の色合いが上品で美しいようです。咲き始めた頃の浅い色でそう見えるのでしょうか。気温が上がるに従い、色を濃く染めていくのです。

先程撮ったアジサイの花々の写真をお楽しみ下さい。

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20世紀の独裁者(3)ヨーロッパ文化の闇が生んだ独裁者ヒットラー

2013年06月08日 | 日記・エッセイ・コラム

スターリンもカストロも革命戦争に勝利して独裁者になった共産主義者でした。

一方、ヒットラーは共産主義に反対し、ドイツの議会の中で多数派工作をして独裁者になったのです。

ドイツの議会制民主主義のなかで合法的に、首相、そして大統領の権限を手中におさめ、しまいには総統と称号を用いるようになったのです。それは1935年のことでした。

共産主義革命のような国内戦争をしないで独裁者になったのです。

ドイツ国民は喝采を送り、その後の彼のユダヤ人殺戮、ソ連への侵攻、フランスの占領などをを熱烈に支持したのです。ドイツはキリスト教国でイギリス、フランスと共にヨーロッパ文化の担い手だったのですが。

そもそも何故、ヒットラーのような独裁者が現れたのでしょうか。

1915年のヨーロッパで起きた第一次世界大戦でドイツが英米仏に負け、領土を取上げられ、その上、過酷過ぎる賠償金を要求されたのです。

その復讐心に燃えたドイツ国民がヒットラーという独裁者を育てたのです。

そもそも第一次大戦が起きた原因はヨーロッパ諸国の私利私欲にあったのです。

従って私はヒットラーのような残虐な独裁者を生んだのはヨーロッパ文化の闇だと思っています。彼らが魂を悪魔に売り渡してしまったのです。人間のはかなさにしばし言葉を失います。

さてそれはそれとしてヒットラーの生い立ちを見てみましょう。

彼は1989年にドイツに近いオーストリーの町、ブラウナウで生まれました。1945年に敗戦のベルリンで自殺しましたので56年間の生涯でした。

父は税官吏で厳格だったので常に反発をしていました。母はやさしくいつも息子をかばうクララという女性でした。

1897年からベネディクト修道会の経営する小学校に入り、聖歌隊で活躍しました。

その後、ウイーンに出て、画家になろうとして幾つかの美術学校の受験をしたが失敗します。その頃は売り絵や絵葉書を描いて生活をしたそうです。

そして1915年に第一次世界大戦が始まるとドイツのバイエルン州の連隊へ志願して参戦します。その敗戦がきっかけになり彼はドイツを復興させ強大な国にしようと考えるようになったのです。

第一次世界大戦後、ヒットラーは政治家に転身し、次第に支持者を集め、国会内で多数派工作に成功します。1934年、当時のヒンデンブルグ大統領が死去すると首相と大統領の権限を手中に収めたのです。そして新たな称号として総統を用いるように法令を発布したのです。

このような経過を考えて、私は「独裁者、ヒットラーはヨーロッパ文化の闇から生まれた」と思っています。

彼はアジアの文化圏ではいないような性質の独裁者ではないかと私は感じています。その違いはあくまでも議会制民主主義の範疇で生まれたことです。そうしてもう一つはヨーロッパの先進近代技術を徹底的に駆使して攻撃したという事実です。ロンドンのロケット攻撃もユダヤ人のガス室での殺戮などがその例です。先進近代技術を悪魔のように駆使したのです。

それはアメリカの広島、長崎への原爆投下の精神につながるヨーロッパ文化の暗黒性なのです。

下にヒットラー関連の写真をしめします。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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上は1924年にミュンヘン一揆に失敗し、刑務所に収容中の背広姿のヒットラー

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上はヒンデンブルグ大統領に頭を下げて敬意を表するヒットラー

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上はオーストリー併合後、ウイーンで歓迎されているヒットラーの車上姿です。

===ヒットラーが1932年以降、ドイツ首相、大統領、総統になって行った経過===

1932年11月にはパーペン内閣に不信任案を提出して可決、選挙を迎えた(ドイツ国会1932年選挙 (11月))。この時ベルリンの大管区指導者ゲッベルスはドイツ共産党が主導する大規模な交通ストライキに突撃隊員を参加させた。しかしこれが財界やベルリン市民から危機感をもたれ、ナチ党の得票率は4%ほど落ちて33.1%になり、議席数も196に減少したが、第一党の地位は保持した。しかしこの選挙で共産党が得票を伸ばしていたことに、保守層は危機感を抱いた。財界や伝統的保守主義者などの富裕層はナチスのイデオロギーにも懐疑的であったが、それ以上に共産党がこれ以上伸張してロシア革命の二の舞のような事態だけは避けなくてはならず、ナチ党が共産党に対抗できる唯一の政党とみなされた。ナチ党への献金は増加したが、この段階でも政財界からの政治献金の圧倒的な量は反ナチ勢力に流れており、この時点での党財政の大半は党費収入によるものであった。

一方で事態を打開することが出来なかったパーペン内閣はクルト・フォン・シュライヒャーの策動により崩壊し、後継内閣はシュライヒャーが組織した。シュライヒャーはシュトラッサーらナチス左派を取り込もうとしたが失敗した。シュライヒャーに反発したパーペンの協力もあり、ヒンデンブルク大統領の承認を得たヒトラーは国家人民党の協力を取り付けることに成功し1933年1月30日、ついにヒトラー内閣が発足した。ヒトラーは首相就任直後の施政方針演説にて、(1)国際協調と平和外交、(2)ワイマール憲法の遵守と憲法48条(大統領緊急令による基本的人権の停止条項)の濫用抑止、(3)多党制の維持(共産党の活動も制限しない)の3大方針を示したがこれらが嘘であることは後述のとおりすぐに明らかになった。

内閣発足の2日後である2月1日に議会を解散し、国会議員選挙日を3月5日と決定した。2月27日の深夜、国会議事堂が炎上する事件が発生した(ドイツ国会議事堂放火事件)。ヒトラーとゲーリングは共産主義者蜂起の始まりと断定し、直ちに共産主義者の逮捕を始めた。翌28日にヒンデンブルク大統領に憲法の基本的人権条項を停止し、共産党員などを法手続に拠らずに逮捕できる大統領緊急令を発令させた。この状況下の3月5日の選挙ではナチスは議席数で45%の288議席を獲得したが、単独過半数は獲得できなかった。しかし、共産党議員はすでに逮捕・拘禁されており、さらに社会民主党や諸派の一部議員も逮捕された。これらの議員を「出席したが、投票に参加しない者と見なす」ように議院運営規則を改正することで、ナチ党は憲法改正的法令に必要な3分の2の賛成を獲得出来るようになった。

3月24日には国家人民党と中央党の協力を得て全権委任法を可決させ、議会と大統領の権力は完全に形骸化した。7月14日にはナチ党以外の政党を禁止し、12月1日にはナチ党と国家が不可分の存在であるとされた。以降ドイツではナチ党を中心とした体制が強化され、党の思想を強く反映した政治が行われるようになった。しかし他の幹部とは異なった政権構想を持っていた突撃隊ではさらなる第二革命を求める声が高まり、突撃隊参謀長レームらとの対立が高まった。ヒトラーはゲーリングと親衛隊全国指導者ヒムラーらによって作成された粛清計画を承認し、1934年6月30日の「長いナイフの夜」によって突撃隊を初めとする党内外の政敵を非合法的手段で粛清した。この時、党草創期からのつきあいがあったレームの逮捕にはヒトラー自らが立ち会っている。

1934年8月2日、ヒンデンブルク大統領が在任のまま死去した。ヒトラーは直ちに「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を発効させ国家元首である大統領の職務を首相の職務と合体させ、さらに「指導者兼首相(Führer und Reichskanzler)であるアドルフ・ヒトラー」個人に大統領の職能を移した。ただし「故大統領に敬意を表して」、大統領(Reichspräsident)という称号は使用せず、自身のことは従来通り「Führer(指導者)」と呼ぶよう国民に求めた。この措置は8月19日に民族投票(ドイツ語版を行い、89.93%という支持率を得て承認された。これ以降、日本の報道でヒトラーの地位を「総統」と呼ぶことが始まった。指導者は国家や法の上に立つ存在であり、その意思が最高法規となる存在であるとされた。

権力掌握以降、ヒトラー崇拝は国民的なものとなった。1935年1月22日には公務員・一般労働者が右手を挙げて「ハイル・ヒトラー」と挨拶することや、公文書・私文書の末尾に「ハイル・ヒトラー」と記載することが義務付けられた。民衆が党や体制に対する不満を持つことがあっても、地方・中央の党幹部に批判が向けられ、ヒトラー自身が対象となることはほとんど無かった。

国家元首に就任して以降国際的な行動を実行する日はしばしば土曜日を選んだ。週末は他国政府の対応が遅くなるという理由からである。1935年3月16日のドイツ再軍備宣言、1936年3月7日のラインラント進駐はどちらも土曜日である。

(以上の抜粋文と、上の写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC です。)