武田信玄の三代目の勝頼は豊臣秀吉によって滅ぼされました。
しかし徳川家康は武田家の遺臣を迎え入れ才能にしたがって活用しました。
例えば、このブログで以前ご紹介したように、武田信玄の下級武士が八王子の千人同心になって活躍したのです。(私の郷土史(3)八王子千人同心の半分武士・半分農民の不思議な歴史)
以下にも一つの例を示します。
小生の北杜市の山小屋の住所は「柳沢」という地名がついています。
戦国時代にここに柳沢一族が住んでいました。
その子孫が徳川幕府で重用されたのです。
以下に順々に写真を楽しみながらご覧頂ければ嬉しく存じます。
まず最初に山梨県旧武川村の柳沢の水田のそばに立っている柳沢氏の記念碑の写真を下に示します。背景の雲の中に甲斐駒岳があります。私の山林の中の小屋へ行くたびにここを必ず通ります。
この上の写真の真ん中に立っている戦国時代からの柳沢氏の説明板を下に拡大して示します。
上の説明文にある信俊が現在の埼玉県の寄居町へ徳川幕府によって迎え入れられたのです。 そして、信俊の孫が柳沢吉保なのです。
この柳沢吉保のことは、埼玉県の川越へ遊びに行くとき通過した三芳町で偶然、発見したのです。
古い農家の展示場の説明板の中に柳沢吉保が近辺の新田を開発したと明記してあったのです。
この吉保の祖父の信俊が遠く離れた山梨県の甲斐駒岳の麓の旧武川村の柳沢の出身なのです。
この発見によって三芳町が急に身近に感じられるようになりました。
新田を開発した時、柳沢吉保は川越城主でした。それは元禄7年(1694年)に柳沢吉保が川越城主に任命されてからすぐのことです。2年後の1696年に検地が行われ、180世帯の新しい村が完成したのです。
そしてその後の宝永元年(1704年)に柳沢吉保は先祖発祥の地、甲府藩15万石の藩主になるのです。そこでも新田開発に取組み大きな業績を上げたと言われています。
以上の歴史で面白い事は武田信玄に仕えた柳沢一族が徳川の世になると徳川に仕え、甲州の城主に返り咲いたということです。
柳沢吉保は優秀な行政能力を持っていたに違いありません。
徳川幕府は才能のある人材を民間からも抜擢して活用したのです。
柳沢吉保の3人の息子は郡山藩主、三日市藩主、黒川藩主などになっています。
なおその他の柳沢一族の江戸時代の活躍については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E5%90%89%E4%BF%9Dをご覧ください。
上の写真は三芳町の欅並木ですこの三芳町には三富(さんとみ)新田の農家が展示してあります。以下の写真で説明します。
1804年から1829年に少しずつ大きくして作られた島田家です。中に入って見ると農家とは違い大きな座敷が幾つか広がっています。パンフレットに理由が書いてあります。
1830年から1874年に上富小学校が開校するまでの44年間寺小屋として三富の教育をした家です。師匠は島田伴完で延べ300人の子供を教育したと言われています。
勿論住居でもあったので炊事用具は完備しています。
寺子屋の師匠は普段は農作業をしていました。農具やカゴが並んでいます。
教室に使われていた座敷へ繋がる廊下です。今は静かですが当時の子供達の声が聞こえるようです。
一つだけ蛇足を言わせて下さい。江戸時代は幕府が直轄領の関東平野の新田開発を盛んに進めたのです。それまで萱原や雑木林が広がっていた武蔵野が農村地帯になったのです。結果人口が増加しました。
(出典:http://www.nexyzbb.ne.jp/~omnika/jinnkou_suii.html )
江戸時代の始めは1200万人いた日本人が江戸の中期には3300万人に増加したのは江戸幕府や各藩による新田開発によると考えられます。
このように視点を日本全体に拡大すると江戸時代が日本の近代化の準備段階として大変重要な時代だったことが理解出来ます。
郷土史を単に限られた地域に限定しないで全日本的な視野でつなぎ合わせると大変重要な発見が出来ると改めて感慨深い思いをしました。
次回は多摩地区の新田開発で功績を上げた川崎平右衛門のことをご紹介したいと思います。(この項終わり)