1939年から1975年までスペインの独裁者として36年間君臨していたフランコは、1892年にスペインンの軍港で軍人の子として生まれ、陸軍士官学を卒業し、独裁者になり、1975年に83歳の生涯を終えました。
少尉任官後は植民地、モロッコの反乱軍の鎮圧に功績をあげ少佐に昇進します。
そして1935年には陸軍参謀長になりました。
1936年に共産党などの左翼勢力が政権を取ったのを粉砕するために軍事クーデターを起こし、その後3年間にわたるスペイン内戦に勝利し、1939年からスペインの独裁者になりました。
その独裁権の確立までの複雑な経過は下の3つの記事でかなり詳細に説明しました。
ピカソの「ゲルニカ」と、ヘミングウエイの「誰がために鐘は鳴る」
1939年後のフランコの外交政策は中立という立場でした。しかしドイツが勝っている間はドイツ、イタリアを支援し、ドイツが劣勢になると英米などの連合国側に親しくするという実に日和見的な中立でした。首尾一貫性に欠け、思想やイデオロギーなどには関心が皆無な現実主義者でした。
ドイツがソ連へ侵攻し華々しい進撃を見せると10000人のスペイン人義勇部隊をドイツに送ったのです。
日本の勢いの良い時代には満州国を承認し、真珠湾攻撃では日本へ祝電を送ったのです。当然アメリカは気分を悪くしスペイン制裁を試みます。
しかし戦後、冷戦状態が厳しくなると防共の旗手としてアメリカに急接近し、1953年にはアメリカとスペインの共同防衛協定を締結し、アメリカから多額の軍備援助を貰い、完全に自由主義陣営の勢力圏に入るのです。そしてソ連や東欧圏の共産主義と対決姿勢を取ります。
1959年はアメリカのアイゼンハワー大統領を訪問し親米国家として国際社会に認められたのです。
このような風見鶏のような外交姿勢から日本人はフランコを、そしてスペイン人を軽く見る傾向があります。
しかし1975年にフランコが亡くなるとスペインは自由な議会制民主主義を急速に発展させ、王政復古も行い日本と同じような緩やかな意味での立憲君主国になったのです。(立憲君主国とは形式的な王が居て、憲法で議会の権限を認めた民主国家と定義します。これは広義の定義です。)
その結果、現在はヨーロッパ連合、EUの中核をなす国家になったのです。
さて思想やイデオロギーを無視したフランコは、本当に軽蔑に値いするような権力亡者だったのでしょうか?
私には判りません。しかしカトリックの自分の立場から見るとフランコの全てを否定出来ないのです。
彼は生涯、終始一貫してカトリック教会を保護したのです。
彼が独裁者になるとすぐにカトリックだけをスペインの唯一の合法的な宗教にしました。カトリック教会だけが本を出版できたのです。他の宗派の教会はその礼拝を宣伝出来なかったのです。
政府はカトリック教会を支援するために聖職者の給与を支払ったのです。公立学校でもカトリックの教義を教えるように義務ずけられたのです。
バチカンのローマ法王とは密接な協力体制にありました。それは1953年のコンコルダートという協定として集大成されます。
この協定でカトリック教会は様々な特権を手に入れたのです。結婚式は全て教会で行うべしという政府の指導が徹底されました。教会は全ての納税義務を免除され、その上、新しい建物を建てるときは政府が経済援助したのです。
カトリック教会だけが新しい大学を作る権利を得ました。教会がラジオ局を運営し、新聞や雑誌を発行しました。聖職者の兵役義務も免除されたのです。
警察はカトリック教会に介入できず、教会の自治が守られたのです。
これはフランコの個人的カトリックの信仰を政治に直結した政策だったと私は思っています。信仰はあくまでも個人の問題として政治的権力を利用してはいけません。
ローマ法王側もこのフランコの宗教政策の不健全さを是正する動きに出ます。
1965年の第二バチカン公会議では信教の自由を認め、スペインでも他の宗教も平等に扱われるようになったのです。しかしフランコは1975年に死ぬまでカトリックの特権をいろいろな形で守ろうとしたのです。
しかし独裁者がカトリックを守れば、カトリック側が迷惑します。独裁者が守ってくれなくてもイエス様の権威は厳然として神が認めているのです。
フランコは少し思う上がってしまったようです。それよりも、独りで足しげく教会を訪れ静かに祈ったほうが良かったと私は思っています。(続く)
以下にフランコ関連の写真を示します。