後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

初冬の風物詩、干し柿作り、村上の鮭、信州の寒天干し

2014年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
読めば気持ちが晴れ晴れする。気分が良くなる。そして最後にちょっと考え込む。
そんな記事を毎日書きたいと思いっています。
今日は初冬の風物詩としての干し柿作りの風景、村上の塩鮭作りの風景、そして信州の寒天干しの風景を取り上げました。
毎年、この時期になると農家の軒先に干し柿が釣り下がります。その光景は見ていただけで心が暖かくなります。寛ぎます。そのような故郷の思い出があるのか都会の家でも干し柿を作る人が多いようです。
我が家では孫達が作りました。今年は寒かったのでカビも生えないで美味しい干し柿が出来ました。皮を剥いて紐で結んだら熱湯に入れて消毒して吊るします。寒い風にあて日光で乾し上げます。寒い信州や東北地方では作りやすいのです。干し柿が農家の軒先にある風景写真を下に示しました。

新潟県の村上の三面川(みおもてがわ)での鮭の遡上が始まりと塩引き鮭を作ります。鮭の町、村上ではそれぞれの家庭で塩引き鮭を作るそうです。村上市庄内町は「鮭塩引き街道」として有名です。私は行ったことはありませんが毎年この時期になると大きな塩引き鮭が軒先にぶら下がっている風景写真が新聞にでます。
そうすると北海道の川をさかのぼっている数多くの鮭たちの写真を思い浮かべるのです。ヒグマがその鮭を取っている知床の川の風景を連想するのです。東北海道の標津へ旅した時サーモンセンターという立派な建物があり、種々の生きた鮭が遡上する様が見られて感動しました。
寒い季節の到来です。雪が野山を覆う風景を思います。ですから村上の塩引き鮭の風景は私にとって初冬の風物詩なのです。下に村上の塩引き鮭の写真を示します。

そしてもう一つは信州の雪の田圃に広がる寒天干しの情景です。寒天とは冬の空を意味しています。
テングサをを大きな釜で煮溶かし、四角形のトコロテンを凍らせては干し上げるのです。カビたり腐る前に干しあげるためには寒風が吹き太陽光の射す信州でないとうまく行きません。昔、信州を旅した時に雪の田圃にえんえんと広がる寒天干しの光景を見たことがあります。そんな光景の写真を下に示します。

信州の寒天作りに関して面白い話があるので下の参考資料につけてあります。
さて最後に縄文時代からの日本の食べ物について考えてみましょう。
干し柿と塩引き鮭は縄文時代から作っていたと思います。柿は野生の渋柿を採集して来て竪穴式の家の周りで干したに違いありません。石器のナイフで皮は剥いたのでしょうか?
鮭が現在より多量に日本の川をさかのぼっていた筈です。しかし塩は貴重品でしたから塩引きではなく単に干し上げただけだったに違いありません。
この3点の食品は皆天然のものです。自然食品です。自然に対する憧れと感謝を感じさせるのです。ですから気持ちが晴れ晴れしま。気分が良くなるのです。そして最後にちょっと考え込みます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
干し柿の写真の出典: https://ssl.yamagatakanko.jp/gallery/…/img/food/food012.html
村上の鮭の写真の出典:
http://www.senamiview.com/blog/log/eid196.html
寒天干しの写真の出典:http://homepage1.nifty.com/hottayukio/syasin/KANTEN.htm
====寒天の歴史====================
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E5%A4%A9 より抜粋:
江戸時代初期の1685年(貞享2年)、現在の京都府伏見において旅館『美濃屋』の主人・美濃太郎左衛門が、戸外に捨てたトコロテンが凍結し、日中は融け、日を経た乾物を発見した。これでトコロテンをつくったところ、前よりも美しく海藻臭さが無いものができた。
これを黄檗山萬福寺を開創した隠元禅師に試食してもらったところ、精進料理の食材として活用できると奨励された。同時に名前を尋ねられたが、まだ決めていなかったためその旨伝えると、隠元は「寒空」や「冬の空」を意味する漢語の寒天に寒晒心太(かんざらしところてん)の意味を込めて、寒天と命名したという。
その後、大阪の宮田半兵衛が製法を改良し寒天を広める。さらに、天保年間(1830年から1843年)に信州の行商人・小林粂左衛門が諏訪地方の農家の副業として寒天作りを広め、角寒天として定着した。
1881年(明治14年)、ロベルト・コッホが寒天培地による細菌培養法を開発したため、寒天の国際的需要が増えた。このため、第二次大戦前は寒天が日本の重要な輸出品であったが、第二次世界大戦中は戦略的意味合いから輸出を禁止した。


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