後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「エロシェンコを描いて、37歳で夭折した画家、中村彝の物語」

2024年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム
新宿の中村屋で中村彝(つね)の「エロシェンコ像」という油彩画を見た時の感動が忘れられません。暗い悲しげな表情に芸術への憧れがみなぎっているのです。表情が詩的美しさでほのかに輝いているのです。直観しました。エロシェンコはただ者でない!、描いた中村彝もエロシェンコの芸術に共鳴している!それ以来、エロシェンコと中村彝が忘れられない存在になったのです。

今日は盲目の詩人、エロシェンコと夭折の画家、中村彝の絆の物語を書いてみたいと思います。
まずエロシェンコですが、彼はウクライナ人で詩人、童話作家でした。モスクワの盲人学校に学びエスペラントを習得します。
ロンドンに学んだ後の1914年(大正3)東京にきて、日本語とエスペラントで童話を発表しました。東京では大杉栄、神近市子、中村彝らと親交を結びます。1919年、ソ連のスパイの嫌疑でウラジオストクへ送還されました。
1番目の写真が中村彝作の「エロシェンコ像」という油彩画です。現在は近代美術館に展示してある国の重要文化財です。
エロシェンコはウラジオストクに送還された後、北京に行きます。そこで魯迅と親しく交友を結びます。そしてエロシェンコは魯迅の小説『あひるの喜劇』のモデルとなったのです。
23年ソ連に帰国。エスペラントの自伝『わが学校生活の一ページ(1923)、『孤独な魂のうめき』(1923)、日本語の短編小説『提灯物語』その他、多くの詩、短編などを発表します。作品には放浪の盲目詩人の孤独と哀愁を込めたものが多いのです。
さてエロシェンコと中村が 知り合ったのは中村屋ででした。創業者の相馬夫妻が二人を引き取って生活の面倒を見たのです。
以下に中村彝の油彩画を数枚ご紹介いたします。
2番目の写真は下落合の「中村彝アトリエ記念館」に展示してある1914年に描かれた「少女像」です。
中村は1911年新宿中村屋の相馬夫妻の厚意で新宿中村屋裏のアトリエに引っ越します。絵のモデルは相馬家の長女「俊子」です。彼女との恋愛を反対され中村彝は失意のうちに新宿中村屋を去ります。
新宿中村屋の創業者の相馬愛蔵氏と奥さんの黒光さんは明治、大正、昭和の始めにかけて深い人類愛と芸術へ対する尊敬を持ち、数多くの芸術家を情熱的に支援してきたのです。
3番目の写真は彝のアトリエ裏手の風景『目白の冬』です。中央に描かれてあるのがメーヤー館(宣教師の住居)で右端に描かれてあるのが英語学校です。
4番目の写真は1919年、大正8年に描かれた「静物」です。現在は茨城県近代美術館が所蔵しています。

さて中村 彝(1887年 - 1924年)は大正期にかけての洋画家でした。
1887年(明治20年)に茨城県仙波村(現在の水戸市)に生まれました。1904年(明治37年)祖母が死に、唯一生き残った姉が嫁いでからは天涯孤独の身となり一人暮らしの境遇になったのです。その上、彝自身も結核を病み療養のため折角入学した陸軍中央幼年学校を中退します。
1909年(明治42年)22歳の時に第3回文展に初入選します。
1910年(明治43年)には第4回文展で『海辺の村』が3等賞となり作品は実業家の今村繁三が購入します。
1911年(明治44年)、新宿・中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋の裏にある画室に住むことになります。
1921年(大正10年)には病状が悪化し翌年にかけては病臥の生活で、ほとんど作品を残していません。
1924年(大正13年)に37歳で夭折します。

以上これで「エロシェンコを描いて、37歳で夭折した画家、中村彝の物語」を終わりに致します。文学と画業と分野は違えど芸術を愛する二人の間には魂の響き合う永劫の時があったのでしょう。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「マロニエの白い花が咲く山里の小さな美術館」

2024年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム
それは本当に小さな美術館です。南には甲斐駒岳が花崗岩を白く輝かせて聳え、北には八ヶ岳連峰が望める高台にあります。その高台は少しだけ平地になっていて、一歩足を踏み入れると何故か芸術的な香りが漂ってくるのです。毎年、初夏になると白いマロニエが咲いています。今年は行けませんでしたので以前の写真をお送りいたします。
この山里にある美術館は清春白樺芸術村の中にあります。白樺林に囲まれた小さな美術館の前の広場には幾つかの建物があります。
エッフェルが設計した画家たちの集合アトリエのラ・ルーシュがパリから移築されています。そしてエッフェル塔の階段の一部も移築されています。その奥にはジョルジュ・ルオーの記念礼拝堂もあります。
茶室もあり梅原龍三郎のアトリエも復元されています。
美術館にはルオーの油彩画や白樺派の作家達の作品を多数展示してあります。谷口吉生設計の小さいながら美術館らしい雰囲気の漂う清楚な建物です。
この一画を清春白樺芸術村と命名し、銀座の画廊の主の吉井長三が1983年に作りました。
ここは私の山小屋に近いので何十回も訪れた場所です。
1番目の写真は清春白樺芸術村の門です。古めかしい鉄門がヨーロッパの雰囲気を出しています。この門を入ると集合アトリエのラ・ルーシュがあります。パリの雰囲気を感じます。
2番目の写真は集合アトリエのラ・ルーシュの前に繁っているマロニエの木です。パリから移植されたといいます。毎年、初夏になると白い花が咲きます。
3番目の写真はマロニエの花です。
4番目の写真は拡大したマロニエの花です。
5番目の写真は多数展示してあるルオーの作品の一例です。ルオーの油彩画多数の他に梅原龍三郎、岸田劉生、有島生馬、髙村光太郎、高村智恵子などの白樺派の作品が展示してあります。
6番目の写真は清春芸術村の近所の山林の中に咲いていた山桐の花です。
7番目の写真は美術館の近所の農家の庭に咲いていた白い桐の花です。
この清春白樺芸術村の近所は八ヶ岳高原へ続く高台になっていて畑や林の風景がヨーロッパの風景に似ているのです。
そんな風景がお好きな方々へお薦めしたい場所です。
地図は、http://www.kiyoharu-art.com/ に出ています。洒落たレストランもあります。

四季折々、芸術的な雰囲気を楽しめる場所ですので是非お出掛けになっては如何でしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)