後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ドイツの紅葉の思い出」

2024年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム

ドイツの紅葉は緯度が高いので、急に真っ赤、真っ黄色になって、冷たい雨が降って、すぐに散ってしまいます。その紅葉の色は鮮烈です。

もうすっかり遠い昔になってしまいましたが、1969年の9月に見たローテンブルグの町の紅葉は忘れられません。

城壁の外の住宅に下宿していたので、毎日、車で城門をくぐり、ドイツ語学校へ通ったものです。

そして日が暮れ行くころには、タウバウ川のほとりから、紅葉に彩られた町を囲む城壁が夕陽に輝くのを毎日見上げたものです。

それはいつも独りで見上げていた晩秋の風景でした。異国の秋の夕暮れは何故かもの悲しいものでした。

そんなドイツの紅葉を思い出したのでネットに写真が無いか探してみました。

そうしたら、「もうすけさん」のブログ(http://mo-suke1122.blog.so-net.ne.jp/2010-10-31)の中にありましたので、以下にドイツの紅葉の写真をお送りいたします。

お楽しみ頂ければ嬉しく思います。


「美しいドイツの花々」

2024年05月24日 | 写真
ドイツの花と言っても特に特徴がないように見えます。オランダの花卉栽培農家が品種改良した園芸種を情熱的に窓枠に植えたり庭に植えています。
ドイツ人は花を飾ることに対して強い情熱を持っています。彼等は何事に対しても徹底的にするのです。お墓にもいつも色鮮やかな花々を飾っています。
ドイツ文化の長所でもあり怖さでもあります。
南ドイツに家族と共に住んでいました。子供は小学校とキンダーガルテンに通っていました。週末には近郊へのドライブを習慣にしていました。
冬の間一面雪に覆われていた地面が復活祭の頃一気に春の兆しを見せます。牧場地帯や麦畑の農村地帯を車で走っていると一面の菜の花に遭遇したり、黄色いレンギョウの茂みを見つけたりします。
そして5月になるとサクランボの花が青い空にピンクに輝いています。リンゴの花も咲いています。コクリコやバターカップも緑の野原に鮮やかな彩りを加えています。
牧歌的という言葉がありますが、ドイツの農村は教会の尖塔が遠方に見え、花々が咲いていて実に心のなごむところです。

「ドイツの文化とハプスブルグ家の影響」

2024年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム
ドイツには1969年の夏から1970年の秋まで一年4ケ月住んでいました。そして一番吃驚したことはヨーロッパは国々や地域によって文化の非常に違うということでした。

日本から眺めると西洋文化という一つの文化があるように見えますが、住んでみると国々や地域によってそれぞれ歴史や文化が非常に違うのです。
ドイツも北では「こんにちは」はグーテンターグと言いますが、私共が住んでいた南ドイツではグリュースゴットと言います。言葉だけでなく考え方が違うのです。
シュツットガルトでアパートを探しましたらシュバーベン出身の人以外には貸さない家主が多いのです。シュツットガルト地方は昔、シュバーベン王国だったのです。要するに地元の人にしか貸さないのです。新聞広告にはっきり「 シュバーベン人に限るに」と明記してあります。
理由を聞くとシュバーベン人は家を綺麗にし、清潔に暮らすからだと言います。
仕方なく研究所にいるシュバーベン人に同行してもらい保証人になって頂きアパートを借りました。
この経験から私は文化は地域によって違うということを身に沁みて実感したのです。文化と地域を結びつけて考えるようになったのです。これもドイツ留学で私の受けた影響の一つです。
そういう目でヨーロッパ文化を眺めるとハプスブルグ家の影響が大きかったことに気がつきます。
ハプスブルグ家がヨーロッパのあちこちに広大な領土を所有し、各地の文化を発展していったのです。
ハプスブルグ家は軍隊も持っていましたが、日本人が考えるような「近代国家」ではなかったのです。ですから日本人には理解しにくいのです。しかしこれが判らないとヨーロッパというものの本質が理解出来ないのではないでしょうか。
日本では産業革命以後のイギリス、フランス、ドイツ、アメリカの文明を熱心に取り入れて富国強兵を実行し幾つもの戦争をしました。そして敗戦です。戦後もアメリカの工業技術を熱心に取り入れて経済の復興と高度成長に成功しました。
従って産業革命より古いヨーロッパの文化をとかく軽視する風潮があります。それは仕方の無いことです。
しかしヨーロッパ文化へ与えたハプスブルグ家の影響を調べてみるとヨーロッパのある側面が見えて来るのです。そして現在のヨーロッパの通貨の統合やEUの考え方が少し理解出来ると思います。
さて前置きが長くなりましたが、ハプスブルグ家は武力と婚姻関係を利用してヨーロッパ全土に領土を広げ、幾つもの王国を作り、その王達の生殺与奪の権力を手中に収めた一家だったのです。
中世から近代にかけてヨーロッパ全土に支配権を及ぼし、「ヨーロッパは同じ文化圏」という考え方を定着させたのです。
ヨーロッパの歴史でそのような一家はウイーンのハプスブルグ家とフィレンツェのメディチ家です。メジチ家はルネッサンスの芸術家を援助したので日本では善玉になっています。
しかしハプスブルグ家も中世以来、ルネッサンス期も通して芸術家を支援し音楽や絵画を育てていたのです。
この2つの家だけが有名なのは王様の権力以上の権力を握っていたからです。
ハプスブルグ家の当主はその広大な領地内の幾つかの王国の王様たちより権力があったのです。その王位継承権をハプスブルグ家が握っていたのです。
これは日本人にとって理解しにくい事情です。ですから日本ではハプスブルグ家のことはあまり学校では丁寧には教えません。日本ではフランス革命の原因になったマリー・アントワネットだけは有名ですが。
それではハプスブルグ家の領土はどのくらい大きかったかを一番目の写真の地図で示します。

1番目の写真は1547年時点でのハプスブルク家の領土です。(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83…)
ハプスブルグ家はオーストリアを中心にした領土とスペインを中心にした領土に別れていました。
そして中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の指名権、継承権を握っていたのですから驚きです。
現在も、ハプスブルグ家の子孫は婚姻によりスペイン、ベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性すらあるのです。
そしてこの一家の本拠地はウイーンのシェーンブルン宮殿にありました。二番目の写真で示します。

2番目の写真はシェーンブルン宮殿です。(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83…)

そして多くの王国(公国や帝国を含む)の連合として、1526年から1804年まで「ハプスブルグ君主国」が存在したのです。

「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻によってでも所領を増やしていったのです。
その例はマリア・テレジアが数多くの娘たちを各国の王子と結婚させたことでもよく知られています。その結果、ヨーロッパの数多くの王族が親戚関係になり、ある意味でのヨーロッパ統合の実態が自然に生まれたのです。

現在のヨーロッパ連合や通貨の統一はこのような歴史の影響があると考えるとヨーロッパ文化の奥深さが少し理解出来るのではないかと思います。

現在、日本ハプスブルグ協会が「文化芸術サロン」というブログを発表しています。そして良質のヨーロッパの芸術の日本への紹介活動をしています。ハプスブルグ家がこのように日本へもつながっていると思えば不思議な気がします。

それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)


「冒険の連続だった私の人生(2)中世の町、ローテンブルグとドイツ留学」

2024年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム
外国への留学は私の冒険でした。1960年、24歳から2年間オハイオの大学に留学しました。アメリカに行く冒険の次はヨーロッパにも行く冒険でした。今度は34歳のときドイツに留学しました。
アメリカ留学でその社会や文化に魅了されましたが、今度はドイツにも魅了されました。外国に住むと、その国が好きになってしまうのです。
今日はまず初めに私が3ケ月住んでドイツ語を集中的に勉強したローテンブルグの風景をご紹介しましょう。暗い城壁に囲まれた中世の町です。
5枚の写真はインターネットからお借りしました。
1番目の写真は町を囲む城壁です。城壁の上には回廊があり守備兵が並んで防戦出来るようになってきます。写真の左側が町になっています。私はこの城壁の上をよく散歩しました。懐かしいです。
2番目の写真も町を囲む城壁です。
3番目の写真は城壁の入り口です。入り口には高い塔が立っていて、上から敵の動きが見えるようになっております。
4番目の写真はローテンブルグの街並みです。私はこの通りのレストランでよく食事をしました。
5番目の写真はローテンブルグの城壁に囲まれた街の遠景です。ローテンブルグの周囲の田舎道も散歩したものです。
 
ドイツでの生活は1969年夏のにローテンブルグでの3ケ月間のドイツ語研修から始まりました。そしてその後、シュツットガルト市にあるマックス・プランク金属研究所で1年間の研究生活をしました。シュツットガルト市に移るとすぐに家内と子供2人を呼びました。
6番目の写真はシュツットガルト市の風景です。写真はインターネットからお借りしました。
ドイツは気候も社会も若い頃留学したアメリカのオハイオ州とは全く違うのです。
同じ欧米人なのにアメリカとドイツでは人々の考え方が驚くほど違うのです。
「ヨーロッパの階級社会や伝統社会から逃れた人々がアメリカに行って国家を作った」という一行の文章の意味がしみじみ理解出来るのです。ドイツには古い階級社会の雰囲気が残っていました。
それはさておき、まずはじめにドイツの気候の特徴を書きます。それは暗くて寒い冬のです。
7番目の写真はドイツの冬の暗い雲に覆われた農村です。写真はインターネットからお借りしました。
この長い冬を私も体験しました。その体験の結果、ドイツの文化を理解するためにはこの冬の厳しさを考えるべきと思ったのです。
これは重要なことで、その後、私がいろいろな外国の文化や社会を考える時、必ずその国の天候や自然条件を考慮に入れるようになったのです。
例えば北欧の観光写真を見ると、ほとんど全てが夏の晴天の日に撮ったものです。そんな輝く晴天の日は年間でほんの数日しか無いのです。北欧の人がそんな夏の日に感じる歓喜が想像出来ようになったのです。
内陸のヨーロッパの人々が明るい地中海沿岸のイタリヤや南フランスに強く憧れるのは暗くで長い冬のせいなのです。
もう一つドイツで受けた大きな影響は歴史に関する考え方です。
不思議なことにドイツの研究所の実験室に必ず冷蔵庫があってビールが沢山入っています。実験に疲れたとき1、2本水がわりに飲むのです。そんな折りの雑談の話題は決まったように中世の「30年戦争」のことなのです。
確かなことは忘れましたが1600年代にドイツの町や農村を徹底的荒廃させ人口の何割かが殺された内戦のことです。
戦争の発端はカトリックとプロテスタン宗派との争いでしたが、すぐに領土をかけた地方の領主同士の欲得にからんだ戦争が30年間も続いたのです。そしてフランスやスエーデンやウイーンのハプスブルグ家の軍隊を巻き込んだ大戦争になってしまったのです。誰が敵で、誰が味方か分からない混戦になってしまったのです。丁度、現在の中近東の戦乱状態に似ているのです。
私は日本の学校で「30年戦争」がそんなにドイツにとって重要だとは習いませんでした。ですから「30年戦争」など記憶になかったのです。
ところがドイツ人はビールを飲むたびにこれを話題にして喧々諤々の議論をするのです。
そこで判ったのです。人々が習う歴史とは国々によってまったく違うという事実です。
この世に絶対的に正しい歴史などは存在しないのです。
「歴史は権力者に都合良く書かれている」ということは昔から知っていました。
しかし歴史とは国々によってまったく違うという事実をはじめて体験的に理解できたのです。
それでは「30年戦争」の時代は誰が権力者だったのでしょうか?それが判らないからビールを飲んだ時の格好の話題になったのでしょう。
ビールと言えば面白いエピソードがあります。
「30年戦争」の時、ローテンブルグを包囲した敵将が市長に難題を言います。この大ジョッキのビールを一気に飲み干したら町は焼き尽くさないと言ったのです。市長は喜んで飲み干し、町を救ったのです。現在も市庁舎の上にビールを飲む市長の動く人形があります。
アメリカでビールを飲んだ時の話題はプロ野球やアメリカン・フットボール,
バスケットボールなどに関することが多いのです。あるいは趣味の話が多いのです。歴史が話題になったことを私は知りません。これもドイツ人とアメリカ人の違いの一つですね。
ドイツ留学で聞いた面白い話はもっといろいろありますが、今日はこれぐらいにします。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)