後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本が太平洋戦争でアジア諸国の植民地を独立させた」

2024年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人が誇りにすべきことを書いてみたいと思います。
それは日本がアジア諸国を欧米の植民地から解放し東南アジア諸国を独立させたことです。太平洋戦争で東南アジアの諸国を独立させたことです。
1946年12月8日の真珠湾攻撃で第二次世界大戦に参戦した日本は、快進撃を続け、瞬く間に東南アジアを占領してしまいました。
その地域はイギリス、フランス、オランダ、アメリカの植民地だったところです。
ですからその地域の日本軍の占領は植民地の解放とも言えます。
欧米人を追い出し、大東亜共栄圏という経済圏を作るというのが日本が主張した大義名分でした。
東條総理は各地の首脳を東京に集め、大東亜共栄圏を作るためのアジア会議を開催しました。
しかし1945年の夏に日本が敗北するとビルマ(ミャンマー)、ラオス、カンボジア、ベトナム、マレーシア、インドネシア、シンガポール、フィリッピンなどが一斉に独立を宣言したのです。
グエン・ザップ将軍の率いるベトナム軍は、曾ての宗主国であるフランスと激しい戦争をして勝つのです。
そしてスカルノ将軍の率いるインドネシア軍も、宗主国のオランダに勝利して独立を勝ち取るのです。
図面は日本が占領する前の東南アジアの植民地を地図で示したものです。

 1番目の写真は第二次世界大戦前のアジアの欧米の植民地の地図です。図の出典は、http://homepage3.nifty.com/asia-kenbunroku/Shokuminchi.htm です。
そしてインドネシアの独立戦争に現地に残留した日本兵が多数参加したのです。独立後のインドネシアは非常に親日的な国になりました。
ベトナムでも多数の日本兵がホーチーミンの部下としてフランス軍と戦ったのです。
ここで私のささやかな体験を以下に記します。それは1981年のことでした。
北京の大学へ集中講義に行った際、親しくなった教授から「1959年にソ連と中国が大喧嘩をした理由を知っていますか」と聞かれたことがありました。
「日本の新聞では、イデオロギー路線の論争でソ連が絶交して出て行ったことになっている」と私が答えるとこの教授は苦笑いして言ったのです。

「イデオロギー論議なんて高尚な話ではありません。ソ連の空軍と海軍が中国全土の空港と港湾を自由に使い、すべての軍事作戦の指揮権をソ連に与えよと要求したからです。簡単に言うと、中国全土がソ連の植民地になるということだったのです。当然、毛沢東は断固拒絶しました。ソ連は怒って中国全土から引き揚げたのです。その時、無償供与した工業設備をネジ一本まで貨車に積んでシベリア鉄道で撤収したのです。私の大學でもすべての実験装置が持って行かれ、ガランとした建物だけが残ったものです」
1990年代に河北省の工業団地へ何度か行きましたが、日本の工場進出歓迎は尋常ではありません。
しかし、その同じ町の映画館のポスターには日本軍閥粉砕の赤い字が大きく踊っていたのです。「あの映画はなんです?」「あ、あれは娯楽映画ですよ。現在の日中友好に関係ないです」と、特区の幹部は軽く答えていました。
中国がかつて欧米の植民地になっていた屈辱を中国人は忘れません。
それを考えると、最近に近習平国家主席が太平洋の制海権を握ろうとしています。欧米に植民地化された以前の屈辱を晴らそうとしているのです。

さて日本は今後の対中外交をどのように進めるのが日本の国益を守ることになるのでしょうか?

中国海軍の駆逐艦の写真を3枚示します。
 (写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%89%A6%E8%89%87%E4%B8%80%E8%A6%A7です。)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


「ホーチミンとベトナムの独立のため戦った残留日本兵」

2024年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム
現在のベトナム、カンボジア、ラオス地域には大きな戦争が2度ありました。1946年から1954年のベトナムとフランスの間のベトナム独立戦争と1964年から1973年の主にアメリカ軍と戦ったベトナム戦争です。
この2つの戦争でベトナムはインドシナ半島からフランスとアメリカを完全に駆逐したのです。

今日はベトナム独立戦争におけるホーチミンとベトナム独立軍と共にフランスと戦った残留日本兵にまつわる話を書きたいと思います。
ベトナムは戦後、終始一貫して日本を尊敬し友好的な国だったのです。現在も熱烈な友好国のベトナムには数多くの日本企業が展開しています。
この友好の原因は戦後、ベトナム独立のためのフランス軍との戦争のときに多くの残留日本兵がベトナム軍に義勇兵とした参加したからです。ベトナム独立運動はホーチミンが主導しました。そしてグエンザップ将軍が率いるベトナム軍がディエンビンフーでの戦いで勝利し、フランス軍が降伏したのです。ベトナム人は日本の義勇兵のことを忘れませんでした。
1番目の写真は晩年のホーチミンです。
2番目の写真はグエンザップ将軍(左)とホーチミン初代ベトナム民主共和国主席です。
1945年の終戦時にインドシナに進駐、駐留していた日本軍の総数は約9万でした。その内の800名がベトナム独立軍に参加しました。最終的に仏軍との本格的な戦闘突入後は600名がベトナム全土で戦っていると思われます。そのうえ日本軍の航空機や戦車をはじめとした兵器がベトナム独立軍に渡ったのです。

私は1990年代のはじめにフランス軍と戦った残留日本兵の2人に直接会い、話を聞いたことがあります。そしてベトナムに残留して銀行制度を作ったもう一人の日本人の話も直接聞きました。その方はもと横浜銀行に勤めていて北ベトナムの銀行制度を作ったそうです。
以下は前者の2人の残留日本兵から聞いた話です。
◎ 温顔の将校ホーチミン
フランス軍との戦いです。作戦の最中、川を渡ることがしばしばあったそうです。川岸に来ると兵隊は下半身裸になり、服を着た将校を背負って渡る。軍隊では当たり前の習慣です。残留日本人は皆将校になっていたので、服を着たまま兵の肩に載って渡りました。
ところが、ふと前を見ると、将校服の老人がズボンをたくし上げて歩いて渡って行くのです。向こう岸にたどり着き、渡河した老将校の顔を見ると、それは温顔のホーチミンだったのです。兵隊へ「ご苦労さん」と言っているようにニコニコ顔で振り返っていたそうです。こんな場合、日本軍出の将校は無言で兵から飛び降りましたが、ベトナム人将校は「有難う」と言って兵に感謝するそうです。ホーチミンは将校たちへ「歩いて渡れ」と命令しません。自分は自分の考えで行動し他人へは絶対に命令しなかったそうですす。しかしホーチミンの行動は数日でベトナム全軍に広がって伝わったのです。ベトナム兵の士気が上がるのは当然です。元日本兵はホーチミンの部下として戦った6年間を人生の中で一番輝かしい期間だったと言ったのです。
@日本兵帰還の特別列車
1951年になり、朝鮮戦争が始まります。ホーチミンは郷愁の念にかられる残留日本兵に深い感謝を伝え、北京までの特別列車を仕立て送り返したそうです。
話を聞いたF氏とY氏になぜ残留したのですかと聞きました。
「ホーチミン軍に加われば、食料に困らないと聞いたからですよ。共産主義が正しいとか大東亜共栄圏が良いとか考えませんでした。食べ物の誘惑でしょうね」
もう一人の元横浜銀行の幹部社員だったH氏もホーチミンを尊敬していました。
ホーチミン軍の財務担当幹部としてベトナムの銀行制度の骨子を作ったそうです。
H氏は「ホーチミンは官僚主義を憎んでいた。ベトナム共産党もすぐに官僚的文化に染まり、その結果、一般人民が被害を受けることを憎んでいた。彼は一般民衆の幸福を第一に考え、アメリカ、ソ連、中国からの完全な独立を確信していた」と語ったのです。
@ホーチミン記念館
私が1990年頃に訪問したハノイでガイドをしてくれたベトナム人はいいかげんな若者で、ホテルに迎えに来る時間は遅刻ばかり。道案内もでたらめで、とにかくやる気がない若者でした。
こんなガイドにはほかの国でも会ったことがない。
そんな若者に、「君、ベトナム人が一番尊敬しているホーチミンの記念館に、あす案内してくれないかね?」と頼んでみました。すると翌朝いつもは汗臭いシャツ姿の彼が背広姿をビシッと決めて、ホテルのロビーで朝早くから待っていたのです。ホーチミン記念館へ私を案内するのがそんなにうれしいのか、喜びに絶えないといった様子で、私を引っ張るように連れて行くのです。締め慣れないネクタイを何度も直しながら道を急ぐのです。
記念館には、ホーチミンの写真やディエンビンフーでフランス軍を敗ったグエンザップ将軍の写真などが、生前に使っていた家具や文房具類とともに展示してあります。
3番目の写真はハノイにあるホーチミン廟です。
記念館を出る時、たくさんの横長の旗が暑い風にハタハタとなびいているのに気付きました。
そしてその旗に文章が書いてあるのです。「なんて書いてあるの?」。いいかげんな案内人は目を潤ませて、「ホーチミンはベトナム人の胸に生きている。いつまでも生きている」と説明してくれました。この叙情的な文章は本当にベトナム人の本音です。美しい文章です。

それからいろいろな事がありました。
10年間にわたるベトナム戦争があり改革開放政策がありました、ドイモイ政策に協力して数多くの日本の企業がベトナムに投資し、また多くの工場も作りまました。ベトナムは復興したのです。
◎ホンダバイクの奔流―サイゴン
 1994年、サイゴン、夏の夜のことでした。目前の大きな通りいっぱいに、ホンダの50ccバイクが爆音をとどろかせ、後ろに三、四人乗せて大河の奔流のように流れて行くのです。ほかに楽しみのないベトナム人家族の夜の娯楽です。1976年、米軍がサイゴンを放棄し、ヘリコプターで最後の脱出をしてから18年。
立ち尽くす私の頬を静かに、しかし止めどなく熱い涙が流れる。平和って素晴らしい。フランス、アメリカとの三十年に及ぶ戦争に勝ったベトナム。しかし血の代償は大きかったのです。ハノイ市郊外の山並みを低空で飛ぶ米空軍の戦闘機を打ち落とした、元ベトナム兵の話を思い出していました。先の大戦の終戦間際の東京空襲を思い出します。

4番目の写真は現在のサイゴンの街路を走るバイクの群れです。私が見た1994年にはバイクも服装も貧し気でした。こんなに色彩豊かでなく灰色でした。ベトナムも高度成長したのです。
そして2017年03月に平成天皇と美智子皇后がベトナムを訪問なさいました。
天皇と皇后は日本の義勇兵の奥さんだった女性とその子供達と直接お会いし、「いろいろご苦労なさったことでしょう」とねぎらったのです。勿論、その会見を準備したのはベトナム政府です。訪問して下さって本当に良かったと思います。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤<山杜人)