後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「美しいアカシヤの大連の花の写真」

2024年05月28日 | 写真
『アカシヤの大連』は詩人の清岡卓行の最初の小説作品です。
雑誌『群像』 1969年12月号に発表し、第62回芥川賞(1970年)を受賞 しました。当時読んで感動しました。
それを思い出したので大連のアカシヤの花の写真をご紹介いたしす。写真の出典は、https://4travel.jp/travelogue/10244256 です。
大連は昔から「東方魁城」(東方のアカシアの都)と呼ばれており、毎年5月になると一斉にアカシアの花が咲きます。アカシア祭りが毎年5月に開催されます。
アカシアと言えば清岡卓行著の『アカシアの大連』で、この花を見たいと思う人も多いと思います。
アカシヤの花はその清楚とも言える白い花と芳醇な香りに大いに酔いしれます。
 
この花は注意深く見ると日本の山にも沢山咲いています。札幌などにははアカシヤの並木道があり歌になっています。
 
「この道」、北原白秋作詞・山田耕筰作曲
 
この道はいつか来た道
ああ そうだよ
あかしやの花が咲いてる
 
あの丘はいつか見た丘
ああ そうだよ
ほら 白い時計台だよ
 
この道はいつか来た道
ああ そうだよ
お母さまと馬車で行ったよ
 
あの雲もいつか見た雲
ああ そうだよ
山査子(さんざし)の枝も垂(た)れてる
 
今日はアカシヤの花の写真をご紹介いたしました。
 
それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)
 
 
 

「中国の各地の花園の写真」

2024年05月28日 | 写真
中国の各地の花園の写真です。
写真は「中国の花園の写真」を検索して出て来た数多くの写真の中から美しいものを選びました。
1番目と4番目の写真は洛陽の中国国家花園です。2番目と3番目の写真は福建省の国家花園です。

「中国の瀋陽の金応培先生の思い出」

2024年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム
中国の瀋陽訪問の直後の1981年に、東北工学院の金応培先生を東京の私の研究室へ招んだのです。一年間の研究留学です。
金応培先生は中国東北地方に散在している朝鮮族自治区の出身の朝鮮族でした。
日本の朝鮮併合のあと、彼の両親が朝鮮を脱出し中国の東北地区へ移住したのです。新しい農村に少し落ち着いたら、今度は満州帝国建国で再び悲劇が起きたのです。日本の武装開拓団が金さん一家の農地を強制的に安く買い上げたのです。
 戦後は暫くは旧満州の奥地に住んでいましたが、その後は瀋陽に引っ越しました。
私が瀋陽の東北工学院を訪問したとき、金さんはその大学で助教授をしていました。私は金応培さんの案内で瀋陽市にあるカトリック教会のミサに出ました。
丁度その年にヨハネ・パウロ2世が長崎へ巡礼に来たのです。
文化大革命で破壊された教会がまだ復興していなかった時代でした。北京にはカトリック教会が幾つかありましたが、まだ再開していません。ところが瀋陽まで来たら再開していたのです。そして瀋陽のカトリック教会の人はヨハネ・パウロ2世が長崎へ巡礼に来たことを知っていました。
金応培さんは瀋陽のいろいろな所へ私を観光に連れて行ってくれました。
瀋陽は何と言っても、清朝の発祥の地です。満州族のヌルハチが瀋陽に都を置き、清朝の初代皇帝になったのです。
1番目の写真は瀋陽の故宮です。勿論、この宮殿はヌルハチの時代のものではなく、後の時代に次第に増設していった宮殿です。
北京の故宮と同じような配置になっていますが、規模はずっと小さい宮殿でした。
(瀋陽の故宮の写真。出典:http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2007&d=0819&f=column_0819_003.shtml&pt=large )
 
観光案内をしながら朝鮮族の金応培さんが何故、中国共産党員になって瀋陽市に住んでいるか説明してくれました。
旧満州の奥地の森林地帯での生活は苦しかったのですが、向学心の強い金応培さんは自分で学費を稼ぎ東北工学院へ入学したのです。
旧満州の奥地の森林地帯に入ると人間の拳くらいの大きな松ボックリがあるそうです。その松ボックリを拾い集め、中にある松の実を収集したのです。それを持って町に出て、中華料理店へ高く売ります。
こうして中学校、高校を優秀な成績で卒業し、瀋陽の東北工学院に入学したのです。
大学に入学すると優秀な金さんはすぐに共産党への入党を誘われたそうです。否応はありません。
当時、日本へ留学できたのは共産党の党員に限られていました。1981年はそういう時代でした。
なお金さんは日本語を瀋陽で習ったようです。流暢な日本語でした。そして2度目に瀋陽に行った時には私と妻を温かく自宅に招待してくれました。
その後、金応培さんは東北工学院の教授になり定年退職しました。最近でも年賀状をくれ幸せな老境のようです。
 
今日は瀋陽の金応培先生の思い出を書きました。旧満州の奥地の森林地帯で松ボックリを拾い集め自分で学費を稼いだことに感銘を受けます。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
2番目の写真は現在の瀋陽市の駅前広場です。
3番目の写真は現在の瀋陽市の中心街です。

「清朝の発祥の瀋陽の故宮」

2024年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム
瀋陽は清朝発祥の地であり中国の歴史の重要な街です。また私も個人的に訪問したので色々な思い出のある所です。
今日は瀋陽の歴史や現在の瀋陽の風景をご紹介します。そして私の思い出も紹介します。
瀋陽市は人口820万人で中国の東北地方(旧満州)の真ん中より少し南に ある大都会です。そして瀋陽の故宮は清朝の発祥したところです。故宮が北京へ移転した後は離宮として使われていました。
1625年、清朝につながる初代のヌルハチが後金をつくり、ここ瀋陽に遷都して「盛京」と呼びました。1636年、清朝2代目のホンタイジ(皇太極)は国号を「清」とし、清朝を創立しました。そして1644年、北京に遷都し ました。
ヌルハチとホンタイジの二人が居住したのが、瀋陽の故宮です。瀋陽は清朝の発祥の地なのです。それでは写真をお送り致します。写真は全てインターネットからお借りしました。
1番目の写真は瀋陽の故宮の入り口の楼門です。
17世紀、中国北方の遊牧民族である満州族は、清朝の前身となる後金王朝を建国し、その勢力を拡大しました。初代・ヌルハチは瀋陽を都としこの楼門を作ったのです。
2番目の写真は瀋陽故宮の主殿の大政殿です。
瀋陽故宮の広さは北京故宮の12分の1ですが部屋数はおよそ300で建築物の数は約70もあります。
敷地内は東路、中路、西路の3つに分けられます。東路は最も古く、ヌルハチの時代から使われていました。大政殿自体は、遊牧民族が使用した移動式テント(ゲル)を模しています。ヌルハチが政務を執っていました。
清朝の乾隆帝は瀋陽故宮の増築を行いました。建築様式は漢民族の様式に増築したのです。遊牧民族と漢民族の文化が混合しているのが瀋陽故宮の特徴です。
3番目の写真は現在の瀋陽の駅です。駅の建物は私と家内が訪問した1980年代と変わっていません。
4番目の写真は現在の瀋陽です。車が溢れ高層ビルが林立しています。私共が訪問した1980年代には古い満州の街の奉天(瀋陽の昔の名前)そのままの貧し気な都会でした。隔世の感です。
5番目の写真は大和ホテルです。昔の大和ホテルが美しく改装されています。

6番目の写真は瀋陽にある東北大学です。私が訪問した当時は東北工学院という名前でした。学長の陸先生は日本の旅順工業大学の卒業生でした。当時日本から赴任した教授たちに大切にされたそうで日本人を懐かしがり、私どもを大歓迎してくれました。
この東北工学院から金応培先生と大学院生の張力偉君が私が働いていた東京工業大学へ長期の留学をしてくれました。瀋陽では金応培先生と張力偉君の自宅にも招待され楽しい思い出がいろいろあります。
 
今日は中國の瀋陽の歴史や現在の瀋陽の風景をご紹介しました。そして私の個人的な思い出も紹介しました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)