後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「台湾・韓国・日本は運命共同体」

2024年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム
台湾の中華民国と韓国と日本はともに民主国家です。共産党独裁の中国と北朝鮮と軍事的に対抗しています。ですからこの3国は運命共同体なのです。そんな事情は皆が知っている自明のことです。
台湾にある中華民国と日本は深い友好関係で結ばれています。素晴らしいことです。ところが韓国と日本は必ずしも友好関係にあるとは言い難いのです。大局的に東アジアの真の平和のためには韓国と日本の完全な友好関係が必要です。
そこで今日は韓国と日本の関係を考えてみたいと思います。
昔から日本は中国や朝鮮の文化を学んで来ました。推古天皇3年(595年)に朝鮮半島の高句麗から渡来した恵慈は聖徳太子の師でした。そして飛鳥時代の日本仏教界で活躍した朝鮮の人でした。 
時代は飛びますが日清戦争の頃の朝鮮は大韓帝国として近代的な独立国になっていました。
しかし1910年に日本は朝鮮半島を併合して、日本の固有の領土にしたのです。その併合は1945年まで35年間続いたのです。
朝鮮半島併合の前年の1909年には、伊藤博文がハルピン駅頭で安重根の発射した3発の銃弾によって暗殺されたのです。安重根は現在大韓民国の英雄として記念碑がソウルにあります。
併合後の朝鮮半島では日本語が教えられ、個人の名前も日本風に改名させられたのです。創氏改名です。
そして多数の人々が労働者として半強制的に日本内地へ駆り出されました。彼らは炭鉱やダム建設現場で過酷な労働に従事したのです。
東京の小河内ダムの犠牲者の名前を刻んだ石碑を見ると朝鮮の人の名前がズラリと並んでいます。
そして戦前、戦争中は各地に「朝鮮人飯場」があったものです。私個人はよく朝鮮人飯場に行き、彼等と一緒に遊びました。
現在の在日韓国人はそういう人々の子孫なのです。
これだけ書けば韓国人や北朝鮮人が日本人を恨みに思うのは当然ではないでしょうか?
なお朝鮮併合に関する歴史は参考資料としてこの記事の末尾につけてあります。
それよりも私自身が見た観光地の看板について書いてみたいと思います。
1985年ごろ日本の援助で出来た巨大な浦項製鉄所の技術研究所の金鉄祐所長に韓国へ招待されたのです。
あちこちで講演をする旅でした。その旅には、いつも浦項製鉄所の韓さんという心優しい技師が同行してくれました。そして慶州の数多くの古い寺にも案内されたのです。
ところが何処の寺に行っても入口に40cmX50cmくらいの立派な真鍮製の看板が掲げてあり、ハングル文字で何やら書いてあります。
同行した韓さんに聞くと、16世紀に秀吉軍がこの寺を焼き尽くしたと書いてあるそうです。そしてその後の何の時代に誰によって再建されたかと書いてあるそうです。
驚いたことに数多くのどの寺に行っても秀吉軍が焼き尽くしたと書いてあるのです。焼き尽くされた韓国人の恨みの深さが身に迫ります。
「それにしても文化財の数多くの寺を焼くとは秀吉軍が悪い」と私が韓さんへ言いました。
すると韓さんは、「お寺は韓国兵の宿泊所に利用されていたので仕方がなかったのです」と私を慰めてくれたのです。
そうです。日本でも戦乱が起きるとお寺が焼かれるのはこの理由だったのです。
秀吉軍は寺を焼いただけでなく多数の人々も拉致してきたのです。九州の窯業はその人々によって出来上がったのです。
当然、韓国人は秀吉の蛮行を現在でも恨んでいます。そう思うのは自然ではないでしょうか?
蛇足を書いておきます。
私を韓国へ招待してくれた浦項製鉄所、技術研究所の金鉄祐所長はその前には東京大学の鉄鋼製錬を専門にしていた雀部教授の下にいました。
朴政権の前の政権に反対して東京で政治運動をしていたのです。日本の警察が逮捕して拘留します。
雀部教授には私も大変お世話になったので、金鉄祐さんの釈放運動に少しだけ協力したことがありました。
韓国の政権が代わり、朴政権になったお蔭で、金さんは釈放され、やがて浦項製鉄所、技術研究所の所長として韓国へ招び戻されたのです。
釈放運動に協力したことを恩義に思って、私を韓国へ鄭重に招待してくれたのだと思います。韓国人個人はこのように恩義に篤い人なのだと信じています。
 
日韓の両国民は過去の感情問題を克服して日韓友好を確立すべきです。それが東アジアの真の平和をもたらすのです。平和こそ尊いのです。
 
それはさておき今日の挿絵代わりの写真は韓国の釜山とソウルの風景写真です。写真の出典は、https://snapmart.jp/photos/4395135 と https://seoul-heyanavi.com/blog/11543 です。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
========参考資料===============
韓国併合(かんこくへいごう)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88
1910年(明治43年)、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦とも表記されている。1910年に、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、大日本帝国は大韓帝国を併合し、その領土であった朝鮮半島を領有した。1945年(昭和20年)8月15日、大日本帝国は第二次世界大戦における連合国に対する敗戦に伴って実効支配を喪失し、同年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に大日本帝国による朝鮮半島領有は終了した。1945年9月9日に朝鮮総督府が、連合国軍の一部として朝鮮半島南部の占領にあたったアメリカ軍への降伏文書に署名し、領土の占有を解除した。代わりに在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁(アメリカ軍政庁)が統治を開始した。その後朝鮮半島は、北緯38度を境に南部はアメリカ軍、北部はソビエト連邦軍の2つの連合国軍を中心にした分離統治が続き、1948年(昭和23年)8月15日には、李承晩がアメリカ軍政庁からの独立を宣言して南部に大韓民国第一共和国が建国され、同年9月9日には、北部にソビエト連邦の後押しを受けた金日成を指導者とする朝鮮民主主義人民共和国が建国された。

「何故か昔の日本の農村を思い出させる韓国の田舎の風景」

2024年05月30日 | 写真
韓国の釜山の北の慶尚北道にある河回村と良洞村の平和な農村風景の写真をお送りいたします。何故か昔の日本の農村を思い出させる韓国の田舎の風景です。何故か懐かしい農村風景です。
この2つの村は農村ながらも世界の文化遺産に認定されています。李朝朝鮮時代の農村が昔のまま残っている珍しい文化遺産なのです。
写真はいろいろありますが、何と言っても次の写真集が抜群の出来なので、その写真集から7枚を選びお借りすることにしました。
韓国の歴史村:河回と良洞の絶景写真画像、https://dlift.jp/photo/photoDisplayWorldHeritage921
これらの写真を撮った方へ敬意を表します。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「韓国にある美しい世界遺産」

2024年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム
日本にも貴重な文化遺産があります。奈良の唐招提寺や京都の高台寺などなどです。同じように韓国にも素晴らしい世界遺産があります。
今日は韓国の世界遺産についてまず写真でご紹介いたします。
写真の出典は、https://www.travelbook.co.jp/topic/18683 です。
1番目の写真は韓国の世界遺産の「宗廟 」です。位牌を祀ってある建物です。
朝鮮王朝の歴代王と、そして王妃の位牌を祀っており、神聖な場所として知られています。
正殿19室に49位、永寧殿16室に34位、功臣堂に臣下の位牌83位、合計166位が安置されています。
2番目の写真は韓国の世界遺産の「水原華城 」の城門です。
東京ドーム約28個分の広さを誇る朝鮮王朝後期の都城として知られており、その城壁は水原市の中心を囲むように壮大に建っています。
この城門は第22代王である正祖が父を悼み、2年8ヶ月の歳月をかけて建てられたもので、レンガと石を併用しています。
3番目の写真は世界遺産の「仏国寺 」です。
仏教芸術の最高傑作かつ国宝の寺院とされている仏国寺は理想的な彼岸の世界観が表現されております。
この仏国寺 は1982年に家内と訪問したことがあります。
4番目の写真は韓国の世界遺産の「慶州歴史地域 」です。
慶州市周辺の史跡や古墳の総称で、塔や仏像などが山全体に散在している南山(ナムサン)地区、新羅の王宮が置かれていた月城(ウォルソン)地区などの地域があります。
慶州市の南山地区は1982年に家内と訪問したことがあります。
5番目の写真は韓国の世界遺産の「海印寺 」です。
1200年以上の歴史があり、韓国最大規模の宗派である曹渓宗の寺院です。
海印寺も1982年に家内と訪問したことがあります。瓦屋根の稜線が優美に反っているのが印象的でした。
6番目の写真は韓国の世界遺産の「南漢山城」です。
古くから首都・ソウルを守ってきた要塞で、破損と修復を繰り返しながら400年の歴史を現代に伝えています。海抜500mの自然地形を利用しております。
7番目の写真は韓国の世界遺産の「朝鮮王陵の王墓群」です。
朝鮮王朝の歴代の王が眠っている墓です。40基がソウル近隣に点在しており、遺跡では現在も祭礼が行われています。
 
さて韓国の世界遺産の一覧を以下に示します。
 
世界文化遺産:
石窟庵と仏国寺 - (1995年登録)
海印寺大蔵経板殿- (1995年)
宗廟 - (1995年)
昌徳宮 - (1997年)
華城 - (1997年)
慶州歴史地域 - (2000年)
高敞、和順、江華の支石墓群 - (2000年)
朝鮮王陵 - (2009年) 
大韓民国の歴史的村落:河回と良洞 - (2010年)
南漢山城 - (2014年)
 
世界自然遺産:
済州の火山島と溶岩洞窟- (2007年)
 
以上の世界遺産の中で朝鮮王陵を見てみると李朝朝鮮の歴史が一挙に分かります。
朝鮮王陵は、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国にある朝鮮王朝時代の歴代王族の王陵です。朝鮮王陵は、1408年から1966年のおよそ5世紀にわたって造られたのです。
2009年6月27日に韓国が申請した朝鮮王陵40基がユネスコにより世界遺産として登録されています。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B%E9%99%B5 より)
 
そして同じく世界文化遺産の昌徳宮の概略を説明すると以下のようになります。
朝鮮王朝の開祖李成桂は1392年に開城で王に即位、その2年後の1394年に漢陽(漢城、現在のソウル)への遷都を決定します。
無学大師の風水に基づき漢江の北、北岳山の南にあたる「陽」の地が選ばれ、李成桂が開城で政務を執っている間から王宮の建設が始まったのです。鄭道伝によって「景福宮」と命名され、1395年から李氏朝鮮の正宮として使用されました。
1397年には漢陽の城郭と四大城門が完成しました。その後約200年間、正宮として使用され、1553年に大火によって焼失しました。1592年の文禄の役において、国王の宣祖が漢城から逃亡して治安が乱れると、先陣争いをする小西行長らの一番隊や加藤清正らの二番隊の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり再び焼失したのです。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E7%A6%8F%E5%AE%AE より)
 
今日は韓国の世界遺産についてご紹介いたしました。昨
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)