後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ドイツの文化とハプスブルグ家の影響」

2024年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム
ドイツには1969年の夏から1970年の秋まで一年4ケ月住んでいました。そして一番吃驚したことはヨーロッパは国々や地域によって文化の非常に違うということでした。

日本から眺めると西洋文化という一つの文化があるように見えますが、住んでみると国々や地域によってそれぞれ歴史や文化が非常に違うのです。
ドイツも北では「こんにちは」はグーテンターグと言いますが、私共が住んでいた南ドイツではグリュースゴットと言います。言葉だけでなく考え方が違うのです。
シュツットガルトでアパートを探しましたらシュバーベン出身の人以外には貸さない家主が多いのです。シュツットガルト地方は昔、シュバーベン王国だったのです。要するに地元の人にしか貸さないのです。新聞広告にはっきり「 シュバーベン人に限るに」と明記してあります。
理由を聞くとシュバーベン人は家を綺麗にし、清潔に暮らすからだと言います。
仕方なく研究所にいるシュバーベン人に同行してもらい保証人になって頂きアパートを借りました。
この経験から私は文化は地域によって違うということを身に沁みて実感したのです。文化と地域を結びつけて考えるようになったのです。これもドイツ留学で私の受けた影響の一つです。
そういう目でヨーロッパ文化を眺めるとハプスブルグ家の影響が大きかったことに気がつきます。
ハプスブルグ家がヨーロッパのあちこちに広大な領土を所有し、各地の文化を発展していったのです。
ハプスブルグ家は軍隊も持っていましたが、日本人が考えるような「近代国家」ではなかったのです。ですから日本人には理解しにくいのです。しかしこれが判らないとヨーロッパというものの本質が理解出来ないのではないでしょうか。
日本では産業革命以後のイギリス、フランス、ドイツ、アメリカの文明を熱心に取り入れて富国強兵を実行し幾つもの戦争をしました。そして敗戦です。戦後もアメリカの工業技術を熱心に取り入れて経済の復興と高度成長に成功しました。
従って産業革命より古いヨーロッパの文化をとかく軽視する風潮があります。それは仕方の無いことです。
しかしヨーロッパ文化へ与えたハプスブルグ家の影響を調べてみるとヨーロッパのある側面が見えて来るのです。そして現在のヨーロッパの通貨の統合やEUの考え方が少し理解出来ると思います。
さて前置きが長くなりましたが、ハプスブルグ家は武力と婚姻関係を利用してヨーロッパ全土に領土を広げ、幾つもの王国を作り、その王達の生殺与奪の権力を手中に収めた一家だったのです。
中世から近代にかけてヨーロッパ全土に支配権を及ぼし、「ヨーロッパは同じ文化圏」という考え方を定着させたのです。
ヨーロッパの歴史でそのような一家はウイーンのハプスブルグ家とフィレンツェのメディチ家です。メジチ家はルネッサンスの芸術家を援助したので日本では善玉になっています。
しかしハプスブルグ家も中世以来、ルネッサンス期も通して芸術家を支援し音楽や絵画を育てていたのです。
この2つの家だけが有名なのは王様の権力以上の権力を握っていたからです。
ハプスブルグ家の当主はその広大な領地内の幾つかの王国の王様たちより権力があったのです。その王位継承権をハプスブルグ家が握っていたのです。
これは日本人にとって理解しにくい事情です。ですから日本ではハプスブルグ家のことはあまり学校では丁寧には教えません。日本ではフランス革命の原因になったマリー・アントワネットだけは有名ですが。
それではハプスブルグ家の領土はどのくらい大きかったかを一番目の写真の地図で示します。

1番目の写真は1547年時点でのハプスブルク家の領土です。(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83…)
ハプスブルグ家はオーストリアを中心にした領土とスペインを中心にした領土に別れていました。
そして中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の指名権、継承権を握っていたのですから驚きです。
現在も、ハプスブルグ家の子孫は婚姻によりスペイン、ベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性すらあるのです。
そしてこの一家の本拠地はウイーンのシェーンブルン宮殿にありました。二番目の写真で示します。

2番目の写真はシェーンブルン宮殿です。(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83…)

そして多くの王国(公国や帝国を含む)の連合として、1526年から1804年まで「ハプスブルグ君主国」が存在したのです。

「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻によってでも所領を増やしていったのです。
その例はマリア・テレジアが数多くの娘たちを各国の王子と結婚させたことでもよく知られています。その結果、ヨーロッパの数多くの王族が親戚関係になり、ある意味でのヨーロッパ統合の実態が自然に生まれたのです。

現在のヨーロッパ連合や通貨の統一はこのような歴史の影響があると考えるとヨーロッパ文化の奥深さが少し理解出来るのではないかと思います。

現在、日本ハプスブルグ協会が「文化芸術サロン」というブログを発表しています。そして良質のヨーロッパの芸術の日本への紹介活動をしています。ハプスブルグ家がこのように日本へもつながっていると思えば不思議な気がします。

それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)


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