後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

北極海を行くヨットの写真をお送りします

2012年09月01日 | 写真

ヨットが趣味なので、テレビのヨットの番組はつい見てしまいます。

今日の午後1時から3時まで、BS朝日テレビの「北極圏3000キロ大航海」という番組を見ました。北極熊やアザラシやセイウチの写真を撮りに行く旅です。

驚いた事に、その旅にスループ型のヨットを使っているのです。形は大型ですが、私も昨年まで愛用していたクルーザーヨットと同じ姿です。

北極海を行くヨットの姿が幻想的だったのでテレビの画面を写真に撮りました。

ヨット好きの方々へその写真をお送りいたします。

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今日の午前11時58分に関東大震災が起き、10万人が犠牲になりました

2012年09月01日 | 日記・エッセイ・コラム

大正12年(1923年)の今日関東大震災が起き、10万人が犠牲になりました。昨年の東日本大震災より犠牲者の数が多かったのです。

相模湾沖で大地震が起きたので神奈川県、特に横浜市の犠牲者が3万人もいたのです。

関東大震災は1923年に起きていますから、同じ年生まれた人は89歳以上になります。

したがって実際の体験談はなかなか聞けなくなりました。

ところが家内の父母、祖父母は日野市に住んでたので生前に私自身もいろいろ聞きました。

特に家内の父がソバを茹でていたお湯で台所の釜戸の火を消してから逃げたという話は何度も聞きました。

他は家内から聞いた話ですが、9月1日は余震が多くて母屋に入るのが怖くて屋根のある門の下で一夜を明かしたそうです。

義母は高等女学校の始業式帰りで道の傍らにある竹藪に逃げ込みました。

将棋を指していた祖父は駒を放り出して、表の甲州街道に逃げ出し、祭礼の細い提灯柱にしがみつきました。

怪我人や家の倒壊は無かったものの地震の恐ろしさは生涯消えないようでした。

何日もの間甲州街道を上り下りする避難の人々の列が途切れることなく、祖母は炊き出しのおむすびを握りつづけました。

我々はこの関東大震災のことも忘れないようにと以下に写真や被害状況を掲載いたします。

出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD です。まず焼け落ちた横濱市街の様子です。

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つぎは燃えている東京の警視庁の写真です。

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被害状況の一覧表です。

1923年 関東地震の被害集計 (諸井・武村(2004))より引用
住宅被害棟数 死者・行方不明者数
地域 全潰 非焼失 半潰 非焼失 焼失 住宅全潰 火災 その他 合計
神奈川県 63577 46621 54035 43047 35412 125577 5795 25201 1006 32838
東京府 24469 11842 29525 17231 176505 205580 3546 66521 314 70387
千葉県 13767 13444 6093 6030 431 19976 1255 59 32 1346
埼玉県 4759 4759 4086 4086 0 8845 315 0 28 343
山梨県 577 577 2225 2225 0 2802 20 0 2 22
静岡県 2383 2309 6370 6214 5 9259 150 0 123 444
茨城県 141 141 342 342 0 483 5 0 0 5
長野県 13 13 75 75 0 88 0 0 0 0
栃木県 3 3 1 1 0 4 0 0 0 0
群馬県 24 24 21 21 0 45 0 0 0 0
合計 109713 79733 102773 79272 212353 1301 372659 11086 91781 1505 105385


昭和という時代はどんな時代だったか(3)愛新覚羅 溥儀と川島芳子の悲しい運命

2012年09月01日 | 日記・エッセイ・コラム

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左が愛新覚羅 溥儀で右が川島芳子(愛新覺羅顯)です。上の2人は身分が大きく違いましたが、満州帝国の犠牲になったということでまったく同じなのです。しかし人間は出生の違いによっても運命が別れるのです。

日本軍が中国に侵入して満州帝国を作り上げた過程に巻き込まれ悲劇的な生涯を送った2人の清朝の人がいたのです。最後の清朝の皇帝の愛新覚羅 溥儀と清朝の王女の愛新覺羅顯です。彼女は松本市に住む日本人の養女になって川島芳子と名乗りました。

上の写真は溥儀が満州国皇帝になった時の写真で、右は川島芳子が満州国軍の大将になった時の大将の軍服姿です。溥儀が1906年生まれ、芳子が1907年生まれですから、上の写真は28歳と27歳の頃の若々しい写真です。

日本の敗戦後、溥儀はソ連軍に逮捕され、中国共産党に長い間監禁されましたが、後に許されて平穏な老後を送りました。

一方、川島芳子は国民党軍に逮捕され、「国賊」として1947年に銃殺刑になります。40歳の若さでした。辞世の句は下記の通りです。

家あれども帰り得ず

涙あれども語り得ず

法あれども正しきを得ず 

冤あれども誰にか訴えん

この2人ともに清朝の末裔として日本軍に利用され悲しい運命を受け入れなければなりませんでした。

この2人については日本側から見た伝記や小説やいろいろな本が日本で出版されて来ました。川島芳子は美貌でもあったので数多くの映画も作られたのです。

しかし、この2人を中国人から見たとき果たしてどのような評価をしているのでしょうか?

1912年、孫文達が辛亥革命を起こし、清朝の溥儀を廃帝にしたのです。その溥儀がこともあろうに日本軍と組んで、満州帝国の皇帝になったのです。満州こそは清朝発祥の地です。

そこで清朝が復活したのです。日本軍とともに中国全土を占領しようというのが自然の勢いです。中国人から見たら第一級の国族です。

一方、川島芳子は日本軍の為に第一次上海事件を起こしたのです。そして満州国軍の大将になり、熱河侵攻作戦の総司令官を務めたのです。これは中国側から見たら国族です。銃殺刑になって当然です。これが中国人の理解と考えるのが自然ではありませんか。

一方、溥儀の弟は溥傑といい、日本の華族令嬢と結婚させられました。その女性は苦難の逃亡と引き揚げを経験し、娘とともに無事帰国しました。その娘が日本人の男性と伊豆で心中したのです。悲劇に悲劇が重なりました。

溥儀と溥傑の釈放と、家族との再会を許したのが周恩来だったのです。

愛新覚羅 溥儀と川島芳子のことを中国人はどのように考えているのでしょうか?

このような歴史は欧米にもあったに違いありません。

昭和という時代を少し違った視点で考え直すといろいろと興味深い問題が出て来ます。

末尾にある参考資料も是非ご覧下さい。きっと、ついつい読了されると思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(筆名:藤山杜人)

========愛新覚羅 溥儀===============

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E6%96%B0%E8%A6%9A%E7%BE%85%E6%BA%A5%E5%84%80

溥儀(1906年2月7日 - 1967年10月17日)は、清朝第12代にして最後の皇帝(在位:1908年12月2日 - 1912年2月12日)、後に満洲国皇帝(在位:1934年3月1日 - 1945年8月18日)。1964年より中華人民共和国中国人民政治協商会議全国委員。

溥儀が関東軍と親密になった経緯は、1924年に日本大使館の芳沢公使が彼を大使館に受け入れたことから始まりました。何処の国の大使館も追われる溥儀の受け入れを拒んだからです。

溥儀ら一行は1924年11月29日に北京の日本公使館に入り、日本政府による庇護を受けることになった。翌1925年2月には日本政府が受け入れを表明し、支那駐屯軍と駐天津日本国総領事館が天津市の日本租界の張園にかくまったのです。

なおこの事は、1905年の日露戦争の勝利によるロシア権益の移譲以降、満洲への本格進出の機会を狙っていた日本陸軍(関東軍)と溥儀がその後緊密な関係を持ち始めるきっかになったのです。

==============川島芳子================

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E8%8A%B3%E5%AD%90

川島 芳子(かわしま よしこ、1907年5月24日 ? 1948年3月25日)とは清朝の皇族粛親王の第十四王女である。本名は愛新覺羅顯(あいしんかくら けんし)。

粛親王の顧問だった川島浪速の養女となり日本で教育を受けた。1927年にパプチャップ将軍の二男で蒙古族のカンジュルジャップと結婚したが3年ほどで離婚した。その後上海へ渡り同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して日本軍の工作員として諜報活動に従事し、第一次上海事変を勃発させたといわれているが(田中隆吉の回想による)、実際に諜報工作をやったのかなど、その実態は謎に包まれている。

戦後間もなく中華民国政府によって漢奸として逮捕され、1947年、銃殺刑となったが、日中双方での根強い人気を反映して現在でも生存説が流布されている。

1933年2月になり、関東軍の熱河省進出のため熱河自警団(安国軍または定国軍と呼ばれた)が組織され、川島芳子が総司令に就任した 。 このニュースは日本や満州国の新聞で大きくとりあげられ、芳子は「東洋のマタ・ハリ」、「満洲のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれた。断髪時のエピソードや小説の影響から既に知名度が高かった事もあり、芳子は一躍マスコミの寵児となった。

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