後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

中学三年生の娘を亡くした母の悲しく、美しい文章(1)詩、「衣替え」

2012年09月04日 | 日記・エッセイ・コラム
先日の私の記事、へコメントを下さった「みずのおもて」さんの『カイロス・みずのおもて』というブログを拝見致しました。
19年前に中学3年生の娘を白血球ガンで突然亡くした母の悲しみが美しい文章でつづったブログです。URLはhttp://84815811.at.webry.info/でございます。
思わず姿勢を正して読んでしまいました。感動しました。
「みずのおもて」さんへメールを送り、その美しい文章の一部を5回の連載記事としてこちらのブログに掲載することをお許し頂きました。
イエスさまの御慈しみが若くして旅立った娘さんと遺された家族の上に豊かにありますように祈りつつ、5回の連載記事を謹んでお送り致します。
====「みずのおもて」さんのブログ「カイロス・みずのおもてから転載=====(http://84815811.at.webry.info/201207/article_3.html
ブログ紹介
思いがけなく二つのブログの開設という運びになって、
ここウェブリブログさんには、
娘の闘病の様子を記させていただくことと致しました。

娘は若くして亡くなりましたがその人生は、ただ悲しみだけに終わったというわけではありません。
輝いた生涯だったと思います。

それから長い年月が経ちましたが、そんな娘のことをお話してみたいと思います。

このブログのハンドルネーム『水のおもて』は

みずのたたえの ふかければ、
おもてにさわぐ なみもなし
ひとのなげきの つよければ
いよゝおもてぞ しずかなる


という、詩人高橋元吉の、『無題』という詩からつけました.。
どうぞよろしくお願い致します。
===========================
頼子は私たち夫婦の第二子として1979年1月に生まれ、1993年8月、中学三年生の時、急性骨髄性白血病のためその生涯を閉じました。

病名が分かったのは、中学二年の冬でしたが、発病当初より厳しい状態であることを医師から告げられていました。

その後、一度として寛解に入ることができなかった七か月に渡る闘病期間中、自分を見失って自暴自棄になることも、周囲を困らせるようなわがままを言うこともなく、自らのおかれた状況を受け入れていました。
皆に愛され、自分も周りの人に愛といたわりを示した生涯でした。

=====中略================

   詩・「衣替え 」   ( 2012年07月31日作) 

    あの子の
    小さなころの洋服を眺めていると、
    あの子は今もまだ元気で、
    どこかに遊びに行っているような気がする。

    思い出は今に続くもの、
    今は、
    幸福な未来に続くものだと信じてみたい、
    そう願い続けた月日の重さ。

    きょう、初夏の光は部屋に明るく、
    吹く風は戸外の木々の葉を揺らす。

    雨の多かったあの夏の日々に、
    久々に顔を見せた太陽の日差しを窓辺に見て、
    「あっ、六月だ」とあの子は言った。
    「じゃ、制服、夏服になったね」
    そして黙った。

    世界が一切の色彩を失い、
    自分が何ものでもなくなり、
    愛する子どもがいなくなってしまうと嘆いていたのは、この私だったの。
    何十年もがいちどきに過ぎてしまえばいいと、願っていたのも……

    そして足早に月日は過ぎ去り、
    あの日の慟哭は、静かな追憶へとすがたを変えたけれど、
    去っていく子どもと知って腕に抱いて眠った、
    あの時のパジャマを今も着て寝ている。
    十余年が過ぎた今も。

    でももう悲しみの涙は流れない、
    ただなつかしさとあたたかさが、この胸に残っているだけ……

    あの子の
    小さなころの洋服を眺めていると、
    あの子は今もまだ元気で、
    どこかに遊びに行っているような気がする。

    梅雨の晴れ間の衣替え。
    ハーブの香りとともに洋服を、元の箱に収める。

======詩人高橋元吉の、『無題』======

           みずのたたえの ふかければ、
           おもてにさわぐ なみもなし
           ひとのなげきの つよければ
           いよゝおもてぞ しずかなる

=====次回へ続く===========


薬用植物園の花々の写真をお楽しみ下さい

2012年09月04日 | 写真

最近は花の端境期で、写真を撮ろうと思ってもあまり草花がありません。そこで今日は小平市にある東京都立薬用植物園に行きました。

薬用の植物の花々が沢山咲いています。漢方薬を取るための植物なので花は観賞用に品種改良されていません。素朴で小さな花々です。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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上は赤と白ニチニチソウです。白血病などの抗ガン剤の原料に使われます。原産地はマダガスカルです。

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ショウガ一種でヘンディキウム・コロナリウムという名前だそうです。

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上はラベンダーセージです。何か香料を抽出するようです。

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上はオミナエシです。全草を乾燥させて煎じたもの(敗醤)には、解熱・解毒作用があるそうです。また、花のみを集めたものを黄屈花(おうくつか)というそうです。これらは生薬として単味で利用されることが多く、あまり漢方薬(漢方方剤)としては使われないそうです。

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上はオトコエシです。漢方薬に使われ消炎、利尿、排膿作用があるそうです。


居庸関の内壁に彫られた6種類の文字

2012年09月04日 | 日記・エッセイ・コラム

9月2日に言語や文字の不思議さ・・・消滅する言語、解読され復活する言語など・・・ という記事を掲載しました。その記事へイマジンガーグルさんからコメントを頂き、居庸関の内壁に彫られた6種類の文字の事を教えて頂きました。

すっかり忘れていましたが、1981年に初めて北京に行った時、私もその6種類の文字を見て感動したことを思い出しました。

案内してくれた周栄章教授が万里の長城へ行く途中で、急に脇道に入りこんで、見せてくれたのです。それはひどい泥道で、居庸関も文革のお陰で荒れ果てていました。現在のように駐車場や楼門が整備されていませんでした。

この居庸関の内壁の彫られた6種類の文字について少し調べたことを以下に記します。

居庸関(きょようかん)は北京市街から北西に約50km、八達嶺長城へ向かう途中の峡谷にあります。

明代以前の北京の最終防衛線であったため、この付近の長城は何重にも複雑な建造となっていて、居庸関はその最も内側に位置するようです。

居庸関の中心部に元代に建築されたラマ塔遺跡が残され雲台と称されています。1342年から1345年にかけて建築され、3基の仏塔がそびえていたと言伝えられています。

高さ約10m、幅約27mで、中央にはトンネル状になっています。トンネルは南北に貫く形になっており、南側の上にはガルーダ、北側の上にはナーダのレリーフが彫られています。

雲台の中のトンネル内部には四天王のレリーフ、陀羅尼経文と、雲台建設の由来を記した造塔功徳記が刻まれている。
この経文と造塔功徳記は、漢字、サンスクリット文字、ウイグル文字、チベット文字、パスパ文字、西夏文字の6種類の文字で刻まれており、西夏文字の解読の手がかりとなったと言われています。(この情報と写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%85%E5%BA%B8%E9%96%A2です。)
下に居庸関の写真を示します。ラマ塔遺跡の雲台は写真の左にレンガ造りで出来た台座です。
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この雲台は大きなもので中に出入り口のトンネルが出来ています。そのトンネルの内壁に6種類の文字が彫ってあるのです。1981年、当時訪ねたときは泥道の上に雲台だけがポツンと立っていました。立派な楼門と駐車場はその後、観光用に整備されたのです。

Juyongguan04
下はあまり鮮明な写真ではありませんが、1981年当時に見た時は6文字が鮮明に見えました。
Juyongguan031
読めなくなった文字の解読は失われた文化の発掘調査のように胸おどるロマンですね。
9月2日の記事の補足です。イマジンガーグルさんお教え頂き、有り難う御座いました。

昭和という時代はどんな時代だったか(5)東京オリンピックと新幹線が幸福な時代の始まりになった

2012年09月04日 | 日記・エッセイ・コラム

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(上の写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/ureeruhiroshi/55299151.htmlです。)

昭和という時代の前半は戦争が続いた苦しい、悲しい時代でした。

それが昭和39年(1964年)に新幹線が開通し、東京オリンピックが開催され、急に日本中が湧き立ったのです。敗戦で自信喪失した日本人が自信と誇りを取り戻したのです。その明るい雰囲気のままで、人々の努力によって日本は経済の急成長への道を昇って行ったのです。

東京オリンピックはオリンピックの歴史の上でも大きな変革をもたらしました。その一つは初めてアジア地域で開催されたのです。そして第二次大戦のお陰で多くの植民地が独立を達成し、東京オリンピックへ参加したのです。東南アジアやアフリカの国々が参加し、その総数は93ケ国となり歴史上一番多くの参加国を集めたのです。

それまでのオリンピックはヨーロッパ中心の競技会という性格が強かったのです。それが東京大会で初めて名実共に世界のスポーツの祭典になったのです。柔道がオリンピック種目になったのもこの時です。

1964年10月10日から24日のオリンピック期間中の、競技の場面、場面を忘れる事の出来ない人々は多いと思います。

東洋の魔女と言われた女子バレーボールの金メダル。柔道でヘーシンクに敗れた無念さ。柔道の多数のメダル。マラソンで裸足のアベベの走る姿。円谷はそれでも銅メダルを取ったのです。 日本の男子体操も多くのメダルを取りました。そしてレスリングでの日本選手の活躍。

当時私は国分寺に住んでいました。本郷の大学で働いていたので毎朝、電車で国立競技場と代々木体育館の脇を通します。オリンピックの旗と参加国の国旗は青空にはためいているのを見て日本という国を誇りに思ったものです。帰宅後は白黒テレビでその日のハイライトを見、家内の報告を聞きました。家内はスポーツ好きで、朝のうちにオニギリを作り2歳の娘と一日中テレビの前でオリンピックを見ているのです。

家内の父は学生時代、陸上短距離の選手だったこともあり、昼食のサンドウィッチ持参で毎日、毎日、国立競技場に通っていました。

そのオリンピック開催の前の日には新幹線が開通したのです。10月9日、朝にひかり号は東京駅と大阪駅を同時に発車しました。最高速度の210kmは当時の世界では最高の速度です。東京と大阪の間を4時間で結んだのです。それ以前の東海道も特急、つばめ号は8時間以上かかったのですから一挙に半分以下になったのです。これには日本中の人々が吃驚しました。と同時に日本の工業力に初めて自信を取り戻すことになったのです。

それからの日本は経済成長に祝福された幸福な国になったのです。

下に関連の写真をしめします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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上の写真の出典は、http://www.city.kaizuka.lg.jp/kakuka/kyoiku/shakaitaiiku/menu/volleyball_town/toyonomajo/toyonomajo6.htmlです。

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上の写真の出典は、http://blog.livedoor.jp/tetsudoman/archives/51192064.htmlです。

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上の写真の出典は、http://www.geocities.jp/ugui4491/tokyo_olympic.htmです。左がアベベで、右の写真は寺沢(左)と円谷(右)です。

=====参考資料==================

東京オリンピック:出典は、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF です。

開会式は10月10、閉会式は10月24に行なわれた。開会宣言は昭和天皇、組織委員会会長は安川第五郎、準備委員長は新田純興であった。開会式の1010日は、1966(昭和41年)以降体育の日として親しまれるようになったが、体育の日は2000平成12年)より10月の第2月曜日となっている。1010日が選ばれた理由について「東京の晴れの特異日であったことから」とよく言われるが、実際には1010日は統計的に晴れが多い日とは言いがたい。

順位

国・地域

1

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