後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

中学三年生の娘を亡くした母の悲しく、美しい文章(4)頼子さん、家族と一緒に最後のキャンプへ行く

2012年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム

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先日の私の記事、へコメントを下さった「みずのおもて」さんの『カイロス・みずのおもて』というブログを拝見致しました。

19年前に中学3年生の娘を白血球ガンで突然亡くした母の悲しみがつづられたブログです。

URLはhttp://84815811.at.webry.info/です。思わず姿勢を正して読んでしまいました。

「みずのおもて」さんへメールを送り、その美しい文章の一部を5回の連載記事としてこちらのブログに掲載することをお許し頂きました。

亡くなった頼子さんのお写真を掲載するように送って下さいました。上の写真です。尚、写真掲載に関する私の気持ちは先日の、人の存在の証明 という題の記事に書いておきました。
今日の第4回目は頼子ちゃんが家族と一緒に最後のキャンプへ行った時のことです。
尚、原文の一部を省略致しました。詳しくは原文に御座います。
また文章の合い間合い間に読みやすくするために太字の見出しをつけました。
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以下の話を簡単に書くと、最後に行ったキャンプ場で人々に親切にされ、心が和んだということです。
しかし人々が親切だったのは最後にキャンプに行った4人家族の悲しそうな様子に心打たれたためと想像できます。
悲しい人々を助けようとする人々の温かい気持ちが伝って来て感動します。
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@新舞子浜のキャンプ場へ江名交番のおまわりさんが案内してくれました
(  作成日 : 2012/07/24 )

7月23日は私たち家族にとって忘れられない日です。
19年前、私たちは4人家族でした。
夫と私、19歳の息子と14歳の娘。そのことが起こるまでは、どこにでもある普通の家庭でした。
でもその6か月前、中学生だった娘に不治の病が宣告された時から、家族の生活は一変しました。
その年は災害が多く、翌年に米不足をもたらしたほどの冷夏でしたが、そのような中で娘は最後の日々を過ごしていました。
そしてある日突然、「キャンプに行きたい」と言い出したのです。
晴れた日はほとんどなくいつも雨ばかりの悪天候、しかし娘の願いを叶えるべく私たちは出かけて行きました。
行先は福島県いわき市の勿来海岸です。いにしえの歌にも歌われたその地名に、以前から心引かれていて、いつかは訪ねてもみたいと思っていたのでした。松林の中にキャンプ場があることを本で読みました。
私たちは埼玉に住んでいますが福島県いわき市を目指して出かけて行きました。
しかし、夕暮れになってたどり着いたそのキャンプ場はもう閉鎖になっていて、私たちは行き場を失いました。
どこか地元の旅館でも探して泊るよりほかはない、と私たちは考えました。
しかし娘はどうしてもキャンプをしたいと言います。
もう日が暮れかかり雨も降り始める中、途方に暮れた私たちに、キャンプ場は知らないが、交番ならあそこにあるよ、と湾沿いの北側の方角を指さし教えてくれる人がいました。
期待外れで元気をなくした私たちには、はるかかなたに思えるような距離でしたが、他にあてもなくその交番を目指すことになりました。
それが福島県いわき市の江名交番です。当時菊地さんという警察官の方が赴任されていらっしゃいました。
この後、警察官の菊地さんは地元で床屋さんをされている志賀留蔵さんという方とご一緒に、私たちをキャンプ場まで案内して下さいました。それが松林の中の新舞子浜キャンプ場でした。
@何故、頼子ちゃんはキャンプにこだわったのでしょうか?
雨続きの天候が、新舞子浜のキャンプ場につくころにはすっかり上がって、木立の中にキャンパーたちのともす明かりを見たときには歓声を上げた。
夫と息子がテントを張っている間、私は食事を作った。
「前はあんなにお手伝いできたのに何もできなくてごめんね」と頼子は言った。「私、本当に弱くなったんだね」
その夜頼子は、自分がなぜ、キャンプに来たかったか、ということを話してくれた。
「家だとみんなテレビを見たり本を読んだり、ばらばらなことをして過ごすでしょう。でもキャンプだとみんな同じことをして過ごすでしょう。これは旅館ではだめなの。キャンプでは家族みんなが一つになれるってそんな気がするの。だからキャンプが好きなの


@新舞子浜でのキャンプ場の7年後の再訪

7年後の同じ日、夫と2人だけで再び江名交番と新舞子浜を訪れたのです。7年前の7月23日にキャンプ場を聞くために江名交番にたどりついたのです。
交番の奥の方から浴衣姿のおまわりさんが出てこられた。事情を話すと地元の方に電話をかけ、キャンプ場のことを訊ねて下さった。それからそのお宅まで車で向かい、ご一緒にキャン場へ案内していただけることになった。
それは全く思いもかけない出来事だった。お二人とも見ず知らずの私たちに、長時間を割いて下さるという。そのご好意に、寒々とした心が暖められるような気がした。
キャンプ場に向かう車の中で塩屋岬の灯台を右手に見た。『乱れ髪』の歌を知っていた頼子に「頼子ちゃん、あれ、塩屋岬の灯台よ」と声をかけると、頼子は身を起こしてそれを見た。灯台はすでに薄い闇の中にあった。
そして七年後、夫と共に福島県を再び訪ねました。それは2000年夏のことでした。
キャンプに行った後、あまりにも早く頼子との別れを迎えてしまった私たちは、お世話になったお二人にお礼の手紙を書くことさえせず過ごしてしまいました。落ち着いたら必ずその地を訪れようと心に誓いながら実現できず、いつしかその地名も忘れかけました。
福島に入りどの辺りでだったか、車を運転していた夫が道路標識の「江名」という地名に目を留めました。そして突然「そうだ、江名交番だったよ」と言いました。
私は何ひとつ覚えていませんでした。あの時はもうあかりの灯る頃で、すでに浴衣姿だった警察官の方が電話のあと着がえて、車を出して下さるということに、ただただ恐縮していたのでした。でも夫は確信があると言い、私たちはとうとうその交番を捜し当てました。

@ついに親切だった菊地さんと志賀さんを探し出す

交番の周辺には見覚えがありました。交番の中に人影を見たとき、胸が躍りました。
しかしその方は渡辺さんという別の警察官の方で、九三年当時勤務されていた菊地さんは郡山に転勤されているとのことでした。
渡辺さんがすぐに菊地さんに電話をかけて私たちのことを話して下さいました。そして志賀さんという床屋さんのお名前とご住所を聞いて教えて下さったのです。志賀さんはご健在でこの日お目にかかることができました。
その後私たちは新舞子浜のキャンプ場に行き、あの日のようにテントを張りました。しかし松林の中にあったキャンプ場は大きく様変わりしていました。松の数がずいぶん少なくなっていて残った松も下葉が枯れ込んでいます。松食い虫の被害だということでした。
キャンプから帰ると夫は福島県警本部長さん宛に報告とお礼の手紙を書く、と思いがけないことを言い出し、それを実行しました。さらに思いがけないことに、その方、時の福島県警本部長さんから丁重なご返事をいただいたのです。
「警察官の綱紀粛正のためにホームページで紹介したい」という恐縮する内容のお手紙でした。
菊地さんと志賀さんにはその後お手紙を差し上げご返事もいただきました。
警察官の菊地さんは当時江名交番に赴任されたばかりで、ご自身では土地の事情がよく分からなかったため、志賀さんのお力をお借りしたとのことでした。

新舞子浜と江名交番の人々の温かい心を絶対に忘れない

それから数年後、歌手の本田美奈子さんが亡くなったとき志賀さんからお電話をいただきました。
「娘さんのことを思い出した」と言われるのを聞き胸が熱くなったものです。

新舞子浜と江名交番のことを思うと胸がいっぱいになります。去年からはその場所がもう一つのふるさとになりました。
心優しかったあの方々は今どうしているでしょう。
そして海を臨んだ江名交番や新舞子浜のキャンプ場は。志賀さんのお店も海の近くにあった気がします。
そのたしかな消息も知れぬまま、紙一重の差で無事に暮らしている私たち。
平和な生活を奪われた人たちのことを忘れてはならないし、自分にもいつかそうした事が起こるかもしれないことを忘れてはならないと思う。その上に自分たちの暮らしをたて上げていかなければならないと思う。
大震災のあと、市内にも福島の人たちが避難して見えましたが、思うほどのことは何もできませんでした。
せめてその方々が心に思うふるさとの復興と、人々の『普通の暮らし』が一日も早く戻るようにと願ったのでした。(続く)

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そして大津波復興支援活動を続けています。(この一行は後藤の追記です。


懐かしい霞ヶ浦への小さな旅(3)忘れ得ぬ人々

2012年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム

私は50歳で小型ヨットスクールへ通い、53歳の時、琵琶湖へ行ってヤマハ19という中古のクルーザーを初めて購入しました。

そしてそのヨットを水郷汽船(株)経営の霞ヶ浦マリーナへ陸送しました。

ヨットをクレーンで吊って水に入れてくれたのがマリーナの佐藤敏郎さんです。それ以来、23年間、昨年秋にヨットを止めるまで佐藤さんにお世話になったのです。

優しい性格でいつも笑顔を絶やさずヨットの修理の仕方や扱い方を根気よく教えてくれました。

今回の霞ヶ浦への小さな旅の目的の一つは久しぶりに佐藤さんに会うことでした。

霞ヶ浦マリーナはその後、経営者が変わり、京成マリーナになり現在はラクス・マリーナと言います。経営者が変わっても佐藤さんはマリーナにとって絶対に必要な人なので変わらず働いていて、現在はハーバーマスターです。

今回は彼に会い、昔話を少し楽しんできました。

Photo_31 佐藤さんがクレーンで湖へおろしてくれたヨットはあけび号と命名し、家内とよくセイリングしたものです。左の写真がその時の様子です。

今回のマリーナ訪問で、その24年前に私が購入した「あけび号」が元気に活躍していると聞きました。

群馬県に在住しているカヤシマさんという方が相変わらず乗っているそうです。

その方とは10年ほど前に沖でセイリング中にお会いし、後でマリーナでお話をしたことがありました。

現在は「あけび号」の名前も変わり、使っていない時は陸上に保管してあります。

そこでその旧あけび号の写真を撮って来ました。下の写真です。

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初めて、上の小さなクルーザーを係留した隣に、下の写真のような2本マストの大きな木造艇が係留してありました。

佐藤さんが持ち主の越後さんを紹介してくれます。

越後さんは歓迎のつもりかその夜のビールパーティに招待してくれました。

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越後さんの船は本当に大きくて前部に寝室とトイレ、後ろの部屋はパーティ用のテーブルがあり、隅に流し、料理台、食器棚、冷蔵庫がついています。デッキが木なのでとても柔らかな感じがします。

桟橋から100ボルトの電源と水道を船の中に取り込んでありました。

マホガニーで内装した室内で明るい電灯の下、数人が冷蔵庫で冷えたビールを飲みながら、談笑を楽しむことが出来ます。隅の料理台の上では越後さんが簡単な料理を作ってくれます。

パーティが終われば隣の自分のヨットに帰り、寝てしまえば良いのです。

越後さんは佐藤さんを尊敬し、その後もパーティの時は必ず佐藤さんと一緒に招待してくれました。

それだけでなく、越後さんは私の艇へ乗ってくれて、丁寧にセイリング技術も教えてくれたのです。

そんなお付き合いが2年ほど続きましたが、ある時、その越後さんと、その大きな木造艇が忽然と消えてしまったのです。

佐藤さんに聞くと、返事に困ったような顔をします。何か深い訳がありそうです。

それ以来、私は佐藤さんと越後さんの話は一切しません。人生にはそんな事もあると思い、楽しかった光景だけを胸にしまいこんでいます。

今回も越後さんのことを懐かしく思い出し、彼の大きな木造艇の係留してあった場所へ行ってみました。下の写真の所に係留してあったのです。

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昔は世の中の景気が良くてこの係留場所には立派なクルーザーがびっしりと並んでいたのです。現在はご覧のようにがら空の状態です。向こう側にポツンと一艘のヨットが淋しく係留されているだけです。

懐かしい越後さんも消えてしまいました。あれから茫々20年余になります。

陽はあくまでも明るく射していますが私の心は紫色です。

これも霞ヶ浦への小さな旅の一こまでした。(続く)

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それはそれとして、今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)