後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

武田一族興亡の地をめぐる旅(1)初代、信義が元服した武田八幡宮

2012年09月17日 | 日記・エッセイ・コラム

武田一族で偉大だったのは初代の信義と19代目の信玄の2人です。一族の滅亡は信玄の次の勝頼の時です。織田信長・徳川家康連合軍の追撃で、甲府盆地を出て東の大月の岩殿城へ向かって逃げます。しかし岩殿城の謀反により途中の天目山で打ち取られます。1582年でした。その墓は天目山の麓の景徳院にあります。

2年前の小さな旅では、武田家初代の信義が元服式をした武田八幡宮から始まって、信虎、信玄、勝頼の3代の屋敷、「躑躅ケ崎館」跡地(武田神社)、信玄が長野から移転させた甲州善光寺、そして天目山の麓の景徳院をめぐる旅をしました。

下の写真は平安時代末から鎌倉時代にかけて源頼朝、源義仲、と並んで覇を競い合った武田信義が館を構えていた韮崎市の武田の里に現存する武田八幡神社と武田の里の風景です。尚、写真の下のは、Wikipedeaの「武田信義」の項目からの抜粋文を参考資料として付け加えます。

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武田 信義(たけだ のぶよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%BE%A9

源清光の次男。逸見光長双子の兄になる(一説に逸見光長とは異母兄弟)。甲斐源氏四代目当主であり、武田信玄で名高い甲斐武田氏の初代当主である。大治3年(11288月15新羅三郎義光の孫である源清光の次男として生まれる。逸見太郎光長と一卵性双生児として生まれた。逸見光長は巳刻に生まれ、武田信義は午刻に生まれる(『尊卑分脈』に記述有り)。幼名を龍光丸・勝千代といった。保延6年(1140)、13歳で武田八幡宮にて元服し、武田太郎信義と名を改める。これ以来、武田八幡神社は甲斐武田氏の氏神となる。武田の名字は河内源氏の一族の源義光(新羅三郎義光)の子・源義清常陸国武田郷(現:茨城県ひたちなか市)から甲斐国に配流されて武田氏を名乗ったのに始まる。

治承4年(11804以仁王の令旨により、甲斐源氏を石和に集結させて挙兵し甲斐国の実権を握る(『山槐記』)。このとき信義は53歳であった。ついで信濃に侵攻し諏訪に進出する。その後、駿河国に進出して駿河目代橘遠茂や長田入道を討ち取り、平家本軍到着以前に駿河を占拠する(『吾妻鏡』)。平家本軍が近づくと弟の安田義定や子の一条忠頼らを引き連れて富士川の戦いにも参戦した。吾妻鏡によると駿河守護となったとされているが、実際には信義は実力で駿河を手中にしていた。その後しばらくの間、東国では源頼朝、武田信義、源義仲の三者が武家の棟梁として並立する時期が続く。


親日でない中国人でも理解する、「日本の好感度が世界1位」・・・ある中国ブログより

2012年09月17日 | 日記・エッセイ・コラム

以下の文章の出典は、http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20090404/Recordchina_20090404016.html です。

==「親日でなくても理解できる、日本の好感度が世界1位の理由―中国ブログより」==

2009年4月3日、中国のポータルサイト「新浪」のブログページに、「日本の好感度が世界1位なのはなぜか」という題の文章が掲載された。ブログ記事は、米タイム誌が先ごろ発表した調査結果を踏まえながら考察している。

この調査は世界56か国12万人を対象に実施したもの。世界20か国の好感度をみると、1位日本(77%)、2位ドイツ(72%)、3位シンガポール(71%)、4位米国(64%)、5位中国(62%)の順。同ブログは「中国の好感度は3年連続で5位止まり。一方、日本は2007年から連続で首位をキープ」などと説明したうえで、次のように分析している。

(1)戦後、日本は米国に次ぐODA(政府開発援助)拠出大国になった。
1979年以来、中国は日本から最も多く援助を受けている。日本の対中ODAは累計2兆7000億円。中国が諸外国から受け取った援助額全体の66.9%に相当する。北京市の地下鉄や北京首都国際空港、高速鉄道などが、日本の援助を受けて建設されたものである。

(2)日本の経済力と科学研究を重視する姿勢が、世界各国から高く支持されている。
日本の科学研究費は、米国に次いで世界2位。ドイツ、イギリス、フランス3か国の合計額をも上回る。1990年以来、科学研究費の対GDP(国内総生産)比率で世界1位をキープ。また、科学者数も米国に次いで世界2位である。

(3)日本のクリーンな政治への信念が、世界的に高く評価されている。
日本はクリーンな国として認知度が高い。今年2月、汚職・腐敗防止活動を展開する国際NGO「トランスペアレンシー・インターナショナル(Transparency International)」が発表した「2008年贈賄調査」で、クリーンな国トップ5にランクインしている。

(4)日本の団結精神を、中国人は謙虚に学ぶべき。
明治維新時、武士階級は一つになり、士族の解体を冷静に受け入れた。しかし、それは日本が、初唐期(7世紀初頭~8世紀初頭)における個人の損失を後回しにし、改革のために団結した精神を見習ったことを一因としている。中国人は「個」を重んじ歴代君主の偉業を忘れ、日本人は「群」を重んじ武徳の精髄を悟った。

(5)日本人が大切にするマナーや公徳心が、歴史問題における負の印象を覆させた。
日本人のマナーの良さは世界中で知られている。道端で痰を吐いたり、ゴミをポイ捨てしたりするようなことはない。一方、どこの国に行っても中国語で書かれた「痰を吐くな」「手で触るな」「タバコ禁止」「中国人出入り禁止」という注意書きを目にする。

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日本人は尖閣諸島のことであまり興奮しないで、もっと大きな視野で国際関係を考えるように祈っています。(終り)


藝術の秋です・・・岡本太郎美術館をご紹介します

2012年09月17日 | 日記・エッセイ・コラム

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岡本太郎は1911年に生まれ、1996年に85歳で亡くなった。19歳でパリーに行き、10年間フランス生活。第二次世界大戦勃発で帰国。召集され4年間中国戦線へ。1年の捕虜生活のあと帰国。縄文土器に感銘し、そのルーツを求めて日本各地や沖縄、韓国を訪問した。ユーラシア大陸、シベリヤ、韓国、沖縄、日本と脈々と続く民族文化の根底を検証している。筆者は内心、彼のことを「縄文芸術家」と思っている。

1996年の死後、太郎の養女の敏子さんが川崎市と熱心に相談して1999年に市立美術館として岡本太郎美術館を多摩区の生田緑地公園に開設した。

館内には岡本太郎の抽象画の大作や造形が数十点展示されている。すでに10回以上訪ねているが、見る度に新しい感動を受ける。

企画展も並行して開催されている。ある時訪問したときは、「岡本太郎が見た韓国」展があった。

1964年と1977年の2度の韓国旅行で日本の民族文化の根源が韓国、シベリア少数民族、そしてさらにペルシャまで続いていることに興味の中心を置いた韓国の写真展である。

この写真展を見ながら、彼がフランス滞在中、パリ大学の民族文化関係の学科に在籍していたことを思い出した。

美術館には上の写真にあるように瀟洒なレストランもある。ゆっくり昼食を楽しめる。それと館内には売店があり絵葉書や太郎ゆかりの品を売っている。

この売店で、特にお勧めしたいのが、彼が書き下ろした数多くの本である。日本各地への旅の紀行や芸術論関連の本を売っている。「沖縄文化論」もあるし、「青春ピカソ」もある。母、岡本かの子の文才が彼にもあるようだ。読みやすく、読者に熱く語りかけているようで、つい引き込まれる。敏子さんの「太郎名言集 芸術は爆発だ」もある。

====岡本太郎著、「青春ピカソ」の書評==========

この本は昭和28年12月に新潮社から出版され、最近、平成12年に新潮文庫として再版された。内容は鬼神のような芸術の天才、太郎が書いたものなので理解出来ない所が多い。

しかし、その骨子は、19歳で渡仏した太郎が2年半の苦悩、苦節の後、偶然、ピカソの百号の大作に会った事から始まる。

彼は胸が熱くなり、涙がにじんだと書く。ーーー「これだ!全身が叫んだ。・・・撃って来るもの、それは画面の色や線の魅力ばかりではない。その奥からたくましい芸術家の精神がビリビリとこちらの全身に伝わって来る。グンと一本の棒を呑み込まされたように絵の前で私は身動き出来なかった。」---そして太郎はピカソの崇拝者になった。

しかし、この崇拝者は崇拝する対象を否定し、権威の座から引きずりおろし、それを超越するという鬼神のような独創の化神なのだ。

太郎を不遜な人と非難するのは容易だ。しかし、その前にこの本を読んで貰いたい。

太郎は崇拝する対象を超越するために、ピカソの芸術が何故偉大であるかを徹底的に研究し、その結果を整理し、素人にも分かりやすく書こうとしたのが、この本の内容である。

分かりやすく書こうとする努力は分かるが、凡庸の身には理解を超える所が多い。

本の終わりにある詩人の宗 左近 氏の書評が良い。

そこで、自分が感動した2ケ所だけを紹介する。

偉大な芸術家を褒めたたえるだけで、その欠点を分析し、その芸術を否定しない日本人が多すぎる。その態度の目的は、芸術の権威者を褒め称え、ついでに自分もその権威を借りて、権威者になろうとしているのだ。これは俗物であり芸術家では無い。---まあ、そのような意味のことを書いている。

ピカソの絵は嫌いだが、太郎の絵は好きだ、と言うのも自由だ。他人に馬鹿にされるより自分の頭で何を感じ、考えたかが重要なのだ。恥ずかしいことは何もない。

もう一つの所は絵画鑑賞は絵を描くと同じように独創的な仕事であるという所である。彼の文章を引用すると長くなるので、本書の27ページと28ページにある「観賞と創造」の節をご覧頂きたい。

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岡本太郎美術館へ行くと精神の高揚もあるが、一方で何故か酷く疲れる理由が分かったような気がする。好きな画家の美術館へ行くと疲れるのは何故かが分かる。この本の紹介ほど難しいものは無いので、皆様へ是非ご一読をお勧めしたい。

撮影日時:2008年9月21日午前12時頃、撮影場所:川崎市多摩区枡形7-1-5、川崎市立岡本太郎美術館の外部にて、

川崎市立岡本太郎美術館の詳細は、URL;http://www.taromuseum.jp に御座います。

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。

後藤和弘(藤山杜人)