後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

陽賜里工房ガーデンの秋の公開が例年通り開催されます

2012年09月06日 | うんちく・小ネタ

山梨県、北杜市の甲斐駒の麓にある陽賜里工房ガーデンの秋の公開が例年通り開催されます。秋の草花の咲く庭でコーヒーをゆっくり飲んで寛ごうという企画です。ホストは原田聖也さんという男性とその御母上です。

日時:9月20日(木)~22(土)、朝10:00~夕4:00ころまで、ところ:山梨県北杜市武川町山高 3567-556の陽賜里工房ガーデンです。

連絡先:原田聖也さん、携帯電話:090-4170-0370 E-Mail:t-taraku@t-net.ne.jp

このオープンガーデンには家内と一緒に数回参加しています。昨年の春のオープンガーデンの報告記事を以下に掲載いたします。ご参考になれば幸いです。

======花の園の中の喫茶店・・・陽賜里工房というコーヒー店===

戦後に学生時代を過ごした方々にとっては喫茶店という言葉は懐かしいと思います。名曲喫茶とか純喫茶とか歌声喫茶とかいう名前で、コーヒーの香りとともに文化的な場所でした。当時、コーヒーは高価な飲みものだったのです。

それから幾星霜、一昨日は不思議な喫茶店へ行ってきました。陽賜里工房という名前で、春と秋の2回しか開店しません。春の花々、秋の花々に囲まれたコーヒー店です。店主は原田聖也さんという男性で、コーヒーの修業を重ね、特別のコーヒー豆焙煎工場のものを仕入れて使っています。食品衛生法を勉強をし、飲食店開業の資格も取りました。

この喫茶店は北杜市の真原桜並木のはずれにある花の園です。庭全体がなだらかな南向きの斜面になっていて満開の桜の木が2本、ピンクのユキヤナギ、水仙、ヒトリシズカ、イカリソウなどに囲まれて店主手造りの店があります。

花園の一番高い所にはロマンチックなデザインの木造の家があり店主が寝泊まりする場所になっています。お客は勝手に花の園を歩きまわり、花々を鑑賞します。そして花疲れしたら洒落た店に入って香り高いコーヒーを頂きます。

コーヒーを飲む場所には女主人が居て、つれずれの話し相手になってくれます。店の主人のお母さんです。上品な日本語を使う方です。花の園の作り方などのよもやま話です。一昨日は私がカトリックの話をしましたら、ご自分の信仰のバプテスト教会の話を静かにして下さいました。亡くなったご主人はその教会の牧師さんで、ご自分も宣教活動をしながら幼稚園の園長さんもしていたそうです。兎に角、折り目正しい一生を過ごした方なのでお話をしていてもスッキリとした印象です。

バプテスト派という宗派は興味ある宗派のようなので、このブログでいずれご紹介したいと思います。

下にこの花の園の中の喫茶店の写真をお送り致します。

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緑豊かな新宿御苑の風景をお楽しみ下さい・・・先程行って撮ってきました

2012年09月06日 | 写真

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新宿御苑は徳川家康の家臣の内藤氏の江戸屋敷の一部でした。それが明治39年(1906年)に皇室の庭園として整備されたのです。

それ以来、皇室のもので一般人は立ち入り禁止でした。しかし戦後の昭和24年(1949年)に国民公園として一般に公開されたのです。

文明開化の明治時代に皇室の庭園として造営したので、ヨーロッパの樹木が多く植えられました。プラタナスやユリノキ、マロニエの並木や、ハルニレが大木になってヨーロッパ的な雰囲気を出しています。

そんな雰囲気が好きで時々車を駆って遊びに行きます。新宿御苑専用の大きな有料駐車場があり、いつ行っても空いています。

今日も、満州に住んでいたロシア人の生活と運命 というブログの記事を書いてから、独りで車で行って来ました。

緑豊かな新宿御苑の風景をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。(終り)


満州に住んでいたロシア人の生活と運命

2012年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム

満州とロシアの関係を日露戦争前に遡って、公平に考えると新しい見解が開けます。

その場合、1860年の清国と帝政ロシアの間の「北京条約」でウラジオストック港や沿海州が正式にロシア領になった事実を重要視することが大切になります。

この日本海に面したウラジオストック港や沿海州のすぐ西側には広大な満州の大地が広がっているのです。

ロシアの貧しい農民が中国とロシアの国境を越えて満州に住み着くのは自然な成り行きと考えられます。その上、帝政ロシアが沿海州を領有すると、満州の資源や鉄道を自分達の支配下に入れようとしたのです。鉄道建設やハルピンの街の建設に従事するロシア人も移り住みます。満州にロシア人が急に増えてきたのです。

そんないきさつもあって日露戦争前の満州はロシアの利権の張りめぐされた清国の領土だったのです。

ハルピンがロシア人によって造られた都市です。そして地方にはロシア農民が住み着き、「ロシア村」が散在していたようです。

その上、1917年の共産革命で国外へ移民したロシア人が200万人ほどいました。大部分はカナダやアメリカへ行きましたが、20万人程は満州や日本にも逃れ、いわゆる白系ロシア人として満州や日本に住み着いたのです。

それでは満州に住み着いたロシア農民の生活はどのようなものだったのでしょうか?

ここでご紹介したいのが「満州写真館」です。満州に住み着いたロシア農民の生活の様子を画像で報じています。

そして「満州写真館」の管理人が実に公平な目で、農民の暮らしぶりを詳細に考えているのです。ロシア農民を暖かい目で見て客観的に記述しているのです。その考察の方法は文化人類学的に厳密でもあるのです。

以下には写真だけを転載しますが、是非、http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/100424/roshiajin.html をクリックして「管理人」の的確な文章をお読み下さい。

まずロシア農民夫婦が日本の満鉄の支援で得た乳牛の世話をしている写真です。

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下はロシア農民が3つの桶に漬け物を作っている写真です。そして「管理人」は3つの桶の少なくとも2つは日本のものだと推理しています。その考察が見事です。学問的に厳密です。

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次は子供の写真です。

Img1381 ロシア村の子供達が短い夏を惜しむかのように盛んに水遊びをしています。

生活は厳しくともロシア村は平和で楽しい家族生活があったのです。

下は農村で花を栽培し、都会でそれを売っている農民の写真です。

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そして村の祭りの折にはロシアの伝統的な楽器を持ちだして唄います。

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日本の関東軍が満州を建国してからも上のような地方のロシア村は弾圧しなかったようです。むしろ満鉄などが牧畜の支援などをしていたようです。

さてこのように平穏なロシア村は1945年のソ連軍の満州侵攻でどのように変わったのでしょうか?

その答えは、「満州のロシア人村:http://www4.airnet.ne.jp/tomo63/russian.html 」に明快に書いてあります。このHPも実に客観的で感動的な研究です。素晴らしいです。是非、お読みください。

結論を急ぎます。

1945年に満州を蹂躙したソ連軍は満州に住み着いていたロシア人を抑留し、シベリアの森林伐採や鉄道建設の強制労働をさせたのです。彼らは二度と満州には帰れなかったのです。

そして満州に残ったロシア人は満州が共産党独裁の中国の領土に確定すると中国政府によって国外移住を強制されたのです。当時は中国とソ連は蜜月時代だったのです。白系ロシア人を嫌っていたソ連共産党が中国共産党へ依頼して実行させた政策だったのです。

現在、中国の東北地方(旧満州)にはロシア村は消えてしまいました。

この美しい青い惑星の上にもいろいろな人々が幸せを求めて生活をしています。しかし国家というものの前では悲しい運命に見舞れるのです。

これを人類の小さな、小さなエピソードとして忘れてはいけません。いえ私は絶対に忘れません。

それはそれとして、今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)