(この野付湾の写真の出典は、http://betsukai.jp/blog/0001/archives/2009/06/images/1245371831.jpgです。)
北海道の東部根室市の北に、多量のサケの遡上で有名な標津川(シベツガワ)があります。その南に幅が数十メートルから数百メートルしか無い砂洲で出来た野付半島が、湾曲しながら26kmも伸び野付湾を囲んでいます。砂洲の上には舗装道路が延々と続き、野付灯台まで車で入れます。
そして野付灯台の手前にはトドワラとナラワラという枯れたトドマツの原とナラの原が広がっている場所があります。地盤沈下で海水に漬かってしまったトドマツの木とナラの木が枯れて、白い骸骨のように立っています。不気味です。
その白骨のような林が野付湾を一層荒涼とさせています。人間の住む世界ではありません。
しかし野付湾には美味しい縞エビが棲んでいて、夏にはその味を楽しむことが出来ます。
今回の旅の目的の一つは荒涼たる野付湾と、トドワラやナラワラを見てその写真を撮り、茹でた縞エビを食べることでした。茹でた縞エビは濃厚な味で、確かに有名なエビだけに申し分の無い美味でした。
下に雨もよいの野付湾の風景写真を2枚示します。
小雨が降ったり止んだりで、時々薄日が射していました。
上の写真のような野付湾を右手に見ながら細い砂洲の上の舗装道路をえんえんと辿って行くとやがて右手にナラワラがあります。下にその光景を示します。
よく見ると下の写真のようにナラ林全てが立ち枯れになっている場所もあります。
ナラワラを通り過ぎ、野付灯台の傍まで行くと立派なビジターセンターがあります。
その駐車場に車を停めて、ハマナスの紅い花と実を見ながら、ぬかるみの小道を1.2kmほど歩くとトドワラがあります。下の写真です。
上は立ち枯れた木が倒れた場面ですが、立ったままの林もあります。それを下の写真に示しました。木道は高く狭いので、強い海風や雨が吹き付けると落ちそうになり怖かったです。
この野付半島の向かい側、16km沖には国後島があります。今回は天気が悪く見えませんでいでしたが、野付港は国後島の町や村に行く船の発着場として昔は賑わっていたそうです。
訪れたビシターセンターの2階には昔の択捉島や国後島の町や村落の写真が沢山置いてあります。丁寧に見て行くと択捉・国後には多くの日本人が住み、鮭やニシンを取っていたことが判ります。
日本人の先祖代々のお墓も沢山残っているに違いありません。ロシアは返還しません。
墓参りくらいは行けるのでしょうか?そんな事を考えながら雨のそぼ降る道を帰って来ました。
暗い淋しい小さな旅でした。(続く)
====樺太、千島の占領完了=======================
(出典は、http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h13/jog203.htmlです。)
24日早朝、アリモフ少将が戦車隊を従えて、豊原に到着し、
日本軍の施設をすべて接収し、樺太庁の行政も停止させた。こ
れにて樺太の占領は完了した。
千島列島に関しては、24日以降、順次、日本軍将校を同船
させて小型艦艇数隻からなる偵察部隊が南下し、各島で日本軍
の降伏を受け入れながら占領を続けていった。
択捉、国後については、当初は「アメリカ軍がやってくるは
ずだから我々は手をつけずにかえるのだ」と言って、上陸しな
かった。この二島はかつてロシア領になった事はなく、日本固
有の領土であった。したがって、ヤルタ協定でソ連に「手渡さ
れる」ことになっていた千島列島にこの2島が入っておらず、
日本本土の一部として、アメリカ軍の占領地域に入っていたと
解釈されても不思議はなかった。
しかし、アメリカ軍が来ていないと知ると、ソ連軍は8月2
8日に択捉島に、9月1日に国後島に上陸した。さらに千島列
島に含まれず北海道根室半島の延長である歯舞諸島、色丹島に
も、ソ連軍はそれぞれ9月1日、4日に占領した。歯舞諸島占
領が行われた9月4日は、降伏文書正式調印の二日後である。
北海道の東部の湖を巡る旅をして来ました。川湯に3泊し、野付湾、風蓮湖、シラルトロ湖、塘路湖、達古武湖、摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖、網走湖、能取湖、などを見て来ました。それらの湖の間には広大な大地が広がり、牧場がえんえんと続いています。
この風景を見ているとヨーロッパの田舎の風景と同じです。遥かに見える牧舎や家々も何故か本州と違い欧州風です。明治時代以後、欧米に追い付くために洋風の牧畜や農業を必死に導入して来たのです。
ここには奈良時代の律令国家も鎌倉、室町時代もありませんでした。道南の松前藩以外は江戸文化も存在していませんでした。アイヌ民族のが散在していただけでした。そこへ欧米風の開拓農業が広がったのです。
風景だけを見ながら車で通り過ぎる本州からの観光客は、湖や大地の雄大さに見とれ、ロマンチックな気分になって帰って行きます。
大地に広がる牧場の写真をご覧下さい。
晴天の夏に観光に来た人々はこの大地に生きる人々の厳しい冬を知らないで帰ります。今回はその厳しい生活を暗示させるような雲が一瞬にして広がりました。下の写真です。
今回の旅は天気が悪かった故に、この大地に生きることの苦しみと喜びを深く考えることになりました。大地をよく観察すると北海道の東部の中標津、別海、虹別、標津、釧路、根室、女満別などの地方の大地は牧畜業以外は出来ないような土地です。水はけが良すぎて、寒冷な土地なので牧草以外が育たないようです。
そしてその牧畜業も本州では想像もつかないくらい広大な土地で大規模に牛や馬を飼わないと一家の生計を支えられないのです。下にその牛や馬の写真を示します。
幸いに畑作の出来る土地でも、広い畑でないと生活が成り立ちません。
稲作は南部の一部を除いては困難なのです。ですから本州に根付いている稲作文化は歴史的にも存在していなかったのです。
北海道観光と言えば札幌や小樽や函館、そして旭川動物園に行く人が多いようです。しかし牧場以外、何も無い大地を4日間走り回っていると何故か本州が遠い、遠い国のように思われます。
原発問題や尖閣諸島の問題が小さく、小さく感じるのです。
そんな感じがする野付湾、オダイ沼、風蓮湖、シラルトロ湖、塘路湖、達古武湖、摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖、網走湖、能取湖などを巡る旅でした。
これから下の写真のような風景写真をいろいろお送りする予定です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
日本国憲法は、世界に誇れるものだと思っています。特に戦争の放棄。
先の大戦の加害者として、また、世界で唯一の被爆国として、深い反省と平和への希求が込められたものです。
これまでの歴史に、攻撃のためにと始められた戦争があったでしょうか。
みな、自衛のためです。それを防ぐために、9条が定められたはずです。
ところがその9条の解釈をめぐる論争は、制定間もなくからずっと続いています。警察予備隊から保安隊を経て自衛隊ができたものの、9条の縛りによって、海外に出ることはできないというのが、これまでの解釈でした。
それがアフガニスタンに派遣し、国連が承認しないイラク戦争で、アメリカ軍に海上補給をするまでになりました。既成事実が積み重ねられ、「できたことはしょうがない」と認める国民性が、それを受け入れています。
その片方で、核の平和利用の名のもとに、原子力発電所が次々に建設されました。気付いてみれば。この地震列島に54基もの原発が林立しました。核燃料サイクルの中心だった高速増殖炉もんじゅは動かず、使用済み燃料の中間貯蔵所もほぼ満杯、最終処分場も決まっていないのに。
そのふたつが密接に結びついていることを、私たちは3.11によって知りました。寿命100年もない人間が、半減期10万年の放射能を制御できるというのは夢、まぼろしです。40年前には工学部の花形だった原子力工学科を持つ大学は、ゼロと言っていい状態です。
それでも原発の利権をめぐってできた、原子力ムラという強固な運命共同体。権力を握り、金を握っています。
3.11を受けて、全原発の即時停止、廃炉へという大半の国民の希望を無視して、またもや原発が次々に再稼働し、建設中の原発さえ出来上がることになる気配です。
福島第一事故の収束(避難民の生活保障、被曝した子どもたちの健康確保)さえできていないのに、また、この地震列島に50基の原発が動き始める。悪夢です。
=======投稿 mi-ko | 2012/09/17 08:43 ============