後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

私の好きな日本酒、スコッチ、ワインにビールの銘柄

2012年09月03日 | 日記・エッセイ・コラム

若い頃からいろいろ飲んできました。老境に至ると、あまり飲めなくなり、いろいろなお酒の思い出だけを楽しむようになります。

好きな銘柄も年齢とともに次第に変わって行きます。

ビールは昔は札幌ビールや恵比寿ビールが好きでしたが、年を取るにしたがってそれらの味が重苦しくなってきました。

ドイツに住んでいた頃は苦みの効いたドイツビールに感激して沢山飲みましたが現在は美味に感じません。

最近では、さっぱりした味の軽い発泡酒を愛用しています。

日本酒も灘の銘柄のものが美味しいと思っていましたが、次第に富山、新潟、秋田のような日本海側のお酒が好きになりました。日本酒本来の味が濃厚で楽しかったのです。

しかし老齢になると日本酒も重く感じるようになり最近は眺めて楽しむだけになりました。

ワインもドイツに住んでいたこともあって、ドイツワインだけが好きでした。フランスのワインもイタリーのワインも好みではないと心の中で呟きながら飲んでいたものでした。しかし老人になった現在はワインは重すぎて、甘過ぎていけません。もう飲まなくなりました。

ウイスキーもオンザロックにしたり、水割りにしたり、ハイボールにして随分と飲みました。若い頃は国産のサントリーやニッカを飲んでいましたが、最近ではスコッチが格段に安くなりましたので国産のものは一切飲みません。

ジョニーウオーカーの黒ラベルは贅沢過ぎるので、赤ラベルものを有難がって飲んでいました。たまにオールドパーをご馳走してくれる先輩がいました。高貴な味がしたものです。

そんなことを思い出しながら、最近は格安のスコッチを見つけて飲んでいます。

カティサークとマックイーンという銘柄です。700cc瓶が999円と799円です。

スコッチは無名の銘柄ででもどれもが本物のウイスキーの味がします。上品でイギリス文化をいろいろ連想させる独特な香りがするのです。

カティーサークはインドから紅茶を運んだ高速の帆船の名です。ヨットが趣味なので、帆船を刷ったラベルに誘われてつい買ってしまいます。

昔、瀬戸内海で、あるヨットに招ばれた時、キャビンの柱にこのカティサークの瓶が逆さに固定してあり、下に氷入りのグラスを置き、小さな蛇口をひねるとスコッチがコボコボと良い音を立てながら流れ出た事を思い出しました。

今日もマックイーン・スコッチを買いに行って、日本酒や焼酎や洋酒の広い陳列棚を飽くこともなく眺め、それぞれのお酒を一緒に飲んだ人々を懐かしく思い出して、楽しんで来ました。

それにしても、国産のウイスキーよりも格段に安価でいろいろなスコッチ・ウイスキーが買えるようになったことをしみじみ幸せに感じます。日本が経済成長したお陰なのです。

下にそのような写真を示します。是非無名のスコッチ・ウイスキーを試めしに飲んで見て下さい。

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上に写っているマリーボーンもマックイーンもグレンメイビスもどれも本物のスコッチです。有名ではありませんがジョニ赤と遜色がありません。

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上のカティサークがお薦めです。下の段のアメリカのバーボンも美味しかったですが、年を取ると合わないと感じるようになりました。

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上の段のジョニ赤とオールドパーは間違いなく美味です。予算に余裕のある方へお薦めです。

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上は昔ながらの日本酒の味を楽しみたい方へお薦めの酒です。

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新潟県、魚沼地方の名山の八海山の麓の酒蔵で出来る「八海山」という銘柄の酒です。

私が日本酒を止める頃、気に入って飲んでいた銘柄です。「八海山」にもいろいろありますが、高級なものより普通のものがサッパリしていて素晴らしい日本酒でした。

現在はこの棚の前に立って思い出を楽しむだけになりました。

こんな話をしていると終りがありませんでこれくらいにして失礼します。(終り)


昭和という時代はどんな時代だったか(4)強烈な国家目標が2度挫折した時代でした

2012年09月03日 | 日記・エッセイ・コラム

二度の挫折とは敗戦と「バブル経済の崩壊」のことです。

武力でアジアの盟主になり、大東亜共栄圏を作るという国家目標は1945年の敗戦で完璧に挫折してしまいました。

経済復興と高度成長で世界の経済発展の旗手になるという国家目標も1990年前後のバブル経済の崩壊で一朝の夢となってしまいました。その座は暫く後に中国にに奪われたのです。

私の人生観はこの強烈な国家目標に大きな影響を受けました。勿論、私だけでなく多くの日本人の人生は国家目標に従って必死で生きた時代でした。このような時代は過去の日本の歴史には無かった事です。

この2つの国家目標の挫折を見て、体験した私の心にはいろいろな想いが去来します。渦を巻いていろいろな思い出が湧きあがって来ます。

戦前生まれの日本人はみな同じような激動の時代を生きてきたのです。

いろいろな事がありました。

そこで今日は一つだけ思い出して見ましょう。それは昭和天皇の境遇の変転です。写真を見ながら考えて見ましょう。

まず始めは軍服姿で白馬に跨った写真です。通っていた小学校の校長室の壁に飾ってありました。そして全ての教室には天皇陛下と皇后陛下の神々しい写真が飾ってありました。

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校庭には奉安殿という建物があり教育勅語や式典の時使う大きなご親影が奉安されていたのです。(上の写真の出典は、http://tamutamu2011.kuronowish.com/daigennsui.files/image003.jpg です。)

そして敗戦です。打ちひしがれた国民を励ますために昭和天皇は全国の津々浦々を巡幸したのです。

それは徹底的に地方、地方を精力的に回ったのです。

小学校3年生だった私も仙台の荒れ果てた青葉通りの台の上に立つ天皇へ小さな日の丸の旗をふりました。天皇は何も言わずに中折れ帽子を振るだけでした。

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ご覧下さい。上の写真に写っている人々の表情を。天皇は集まった人々の目を見ながら歩いて行きます。(この写真の出典は、http://kukikei.sakura.ne.jp/shouwa-emperor.htmです。)

そして経済復興が終り、いよいよ経済成長が始まる頃に美智子さまが皇太子の妃として民間から天皇家に加わりました。やがて孫達も生まれ、昭和天皇にもやっと平穏な日々が巡ってきたのです。下の写真をご覧下さい。

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(上の写真の出典はhttp://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/019/734/83/N000/000/002/129550121501116313547_img20070907120222.jpg です。)

この昭和という激動の時代に、天皇はどのような気持ちで過ごしたのでしょうか。

戦争中は天皇の気持ちは一切報道されません。声も終戦を決意したことを告げる8月15日の放送までは一般人には公開されませんでした。

しかし戦後、天皇が側近へ漏らした本当の気持ちや発言が沢山の本になって出版されました。

支那事変に反対し、すぐ終わると言う軍部のウソに怒り、いらいらしていました。2・26事件の時は政治家を殺した青年将校を激しく叱りました。そして日独伊三国同盟に反対し、ベルリンで同盟を推進していた大島大使を非難し、松岡洋右外務大臣を忌み嫌いました。昭和天皇は日英同盟を心情的には希望していたのです。昭和天皇は軍部に騙され、利用されていると知りつつもどうしようも無かったのです。無念だったに違いありません。

戦後、東京裁判でA級戦犯として逮捕すべきとい意見も連合国の一部にはありました。

それをとどめたのがマッカーサーだったのです。

シルクハット、モーニング姿で訪問した天皇をマッカーサーは平服で迎えたのです。そのマッカーサーが天皇の人格に感銘を受けたそうです。

いろいろ書いていたらキリがありませんので止めます。最後に先日参拝して来た昭和天皇の御陵の写真をお送りして終りと致します。

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それhそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

特に戦前生まれの老年の方々の平穏な老後をお祈りいたします。

後藤和弘(藤山杜人)