昭和20年の終戦でやっと平和な時代になったと思った直後に朝鮮戦争が起き、日本は米ソ間の厳しい冷戦構造の最前線にあることが明らかになったです。
この朝鮮戦争は昭和25年から28年まで続きました。
マッカーサー司令部は日本に警察予備隊を作るように指示し、それが後に陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊の3軍の整備へとつながったのです。
朝鮮戦争では日本にある米軍基地から離陸した戦闘機や爆撃機が北朝鮮軍と中国共産党軍を攻撃したのです。当然、北朝鮮軍や中国共産党軍のミグ戦闘機が日本を襲撃しても良い状況でしたが、アメリカの制空権が完璧だったので幸運にも日本本土は空襲を受けませんでした。
新鋭の戦闘機や戦車を多数投入したアメリカ軍も一時は北朝鮮の大半を占領しましたが、中国の人海戦術で押し返され、現在の国境が確定したのです。
朝鮮戦争の日本へ与えた影響は甚大で、これによって強固な日米安保体制が出来たのです。その上、軍需特需は復興期にあった日本の産業を活気づけたのです。
朝鮮戦争によるアメリカ軍の死者は33629人、負傷者は103284人でした。
人海戦術をとった中国共産党軍と北朝鮮の死者数は不明ですが百万人近い数になると言われています。その上、市街戦が各地で行われたので市民の死者数の数十万人になると想像できます。兎に角、それは大戦争だったのです。日本へ与えた影響は非常に大きく、特にアメリカは日本に散在する基地の重要性を確認し、それらを永久に保持する事になったのです。
現在も続く沖縄の米軍基地の問題の根源にもなったのです。
さて一方、ベトナム戦争は1964年から1975年まで続きアメリカ軍の敗北で終わりました。南北ベトナムは共産主義の独裁国家とになったのです。
日本にある米軍基地からも戦闘機や戦略爆撃機が出撃しましたが、日本本土は攻撃されませんでした。しかしソ連の戦闘機が毎日のように領界侵犯をしながら北海道から沖縄へ定期的に飛来していました。日本にある米軍基地から飛び立つアメリカ空軍機をレーダーで監視し、ベトナム戦争を少しでも有利にする情報を集めるのは当然な行為です。これに対して日本の航空自衛隊の戦闘機委が毎日スクランブルをかけていたのです。
アリューシャン列島沖で韓国の大型旅客機はソ連の戦闘機によって撃墜もされました。
この頃は日本からヨーロッパへ行く為にはアンカレッジ空港で給油し、北極海の上を飛んでヨーロッパへ行っていたものです。
ベトナム戦争は戦争特需で日本の経済成長を支えました。しかしもっと深く、大きな影響を与えたのです。それはベトナム戦争反対運動が日本の社会を揺さぶったのです。
小田実などによって指導された「ベ平連」という団体がベトナム戦争反対運動を繰り広げ、若者や学生による「反戦デモ」が長期間繰り広げられたのです。
1991年ソ連崩壊後、機密文書が公開され、ベ平連が東京のソ連大使館の支援を受けていたことが明らかになりました。特にアメリカの脱走兵をスエーデンへ送る過程でソ連の支援を受けていたのです。
べ平連の運動の反作用として佐藤栄作首相は1970年に日米安保条約を自動延長し、米軍基地支援の政策を進めたのです。その方向は後に、「日本政府が米軍基地の費用を負担する原則」へとつながるのです。例えば駐留米軍人の住宅は日本が建てるのが原則です。
ベトナム戦争は米軍の敗北で終わりましたが、戦費に消耗した中国共産党は外交戦略を大転換し、ニクソン大統領を招待し、田中角栄首相を招待し、国交回復を進めたのです。
その実務を進めたのが周恩来総理とキッシンジャー国務長官でした。
従って現在の緊密な経済分野での日中関係はベトナム戦争のお陰とも言えると思います。
下に関連の資料と写真をお送りします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
========朝鮮戦争関連の写真===============
上は朝鮮戦争で使用された米軍主力戦闘機です。
上は首都、ソウルで市街戦をしているアメリカ兵の写真です。
アメリカ軍占領後の荒廃したソウル市の様子です。
上は全韓国を占領し戦地へ行ったマッカーサーと李承晩大統領です。
=======以下はベトナム戦争に関連した写真==========
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======参考資料========================
朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、1950年6月25日 - 1953年7月27日-休戦)は、成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡り北朝鮮が、国境を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争。
当事国ばかりでなく諸外国が交戦勢力として参戦し、朝鮮半島全土が戦場となって荒廃した。1953年に休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時のフロントラインが軍事境界線として認識され南北二国に分断された。現在も両国間に平和条約は結ばれておらず、緊張状態は解消されていない。北朝鮮側による領空・領海侵犯を原因とした武力衝突がたびたび発生している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89
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ベトナム戦争の開始:
ベトナム戦争は第一次インドシナ戦争の延長上にあるため第二次インドシナ戦争とも言われる。宣戦布告なき戦争であるため、ベトナム戦争がいつ開始されたかについては諸説ある。南北ベトナムの統一戦争という観点からは、南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム政府軍に対する武力攻撃を開始した1960年12月という説が一般的であるが、アメリカ合衆国と北ベトナムの戦争という観点からは1965年2月7日の北爆を開戦とする説もある。
この戦争はアメリカを盟主とする資本主義陣営とソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営との対立(冷戦)を背景とした「代理戦争」であった。ホー・チ・ミンの率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)側は、ベトナム共和国(南ベトナム)をアメリカ合衆国の傀儡国家と規定し、ベトナム人によるベトナム統一国家の建国を求めるナショナリズムに基づく植民地解放戦争であるとしていた。
その後アメリカ軍は、1964年8月2日と8月4日にトンキン湾で発生した北ベトナム海軍の魚雷艇によるアメリカ海軍の駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃事件(トンキン湾事件)への報復を口実に、翌8月5日より北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動を行った。
この軍事行動はアメリカ国民からの支持を受け、8月7日には、上下両院で事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」が可決され、民主党と共和党の議員の多くがこれを支持しジョンソン大統領への戦時大権を承認、本格的介入への道が開かれた。
ベトナム戦争の終り:
1975年:北ベトナム軍全面攻撃開始(3月)、サイゴン陥落、南ベトナム崩壊(4月30日)、サイゴンがホーチミン市へ改名(5月)
米軍・南ベトナム側の死者、行方不明の合計と、北ベトナム側の死者、行方不明者数:
推定戦死者 285,000 行方不明者 1,490,000 民間人死者 1,581,000 |
推定戦死者 1,177,000 行方不明者 604,000 民間人死者 3,000,000 |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89
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ベトナム紛争と朝鮮戦争における米軍兵力、死傷者数、戦費の比較
ベ ト ナ ム 紛 争 朝 鮮 戦 争
現 地 米 軍 543,400人 327,000人
(44.4月末現在従来のピーク) (ピーク時)
周辺地域の (44.4月末) 730,000人 472,000人
関連米軍を 第7艦隊(35,000人)┓ (ピーク時)
含む場合 在 タ イ(48,000人)┃
(ピーク時) 在 比(30,000人)┃を含む
在 沖 縄(50,000人)┃
在グアム(15,000人)┛
米軍死傷者 (47.11.30サイゴン米軍司令部発表)
死 者 56,201人 33,629人
負 傷 3,035,534人 103,284人
(36.1.1~47.11.23)
ベトナム戦争(第2次ベトナム戦争…1964年8月のトンキン湾事件を契機としたアメリカ軍機による北ベトナム報復爆撃から、1975年4月30日の解放勢力サイゴン無血入場まで)
…戦争による人的損害は、死者がアメリカ 5万8000人(うち戦闘による死者 4万7000人)、南ベトナム18万5000人、北ベトナム90万人、負傷者がアメリカ30万3000人、南ベトナム50~57万人、北の負傷者は不明。このほか南北ベトナムで 100万人以上の民間の死者が出、さらに無数の難民を生み出した。また爆撃や枯葉剤散布などによる国土の荒廃も著しい。
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