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「城興寺(じょうこうじ)」

2008年06月18日 23時33分04秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京洛三十三所観音霊場めぐりの第二十二番札所となる真言宗泉涌寺派瑞寶山(ずいほうざん)城興寺は、元は成興寺と称し四宗(顕・密・禅・律)兼学の道場で比叡山に属した。
 平安時代後期、藤原道長の孫で九条太政大臣と呼ばれていた藤原信長(1023~94)は四至を現在の竹田街道・室町通・九条大路・東寺道とする広大な地に彼の邸宅九条殿を構えてい。応徳2年(1085)邸内に丈六佛を安置する九条堂を建て、城興院と名づけたとある。3代後の関白藤原忠実(1077~1162)がこの地を伝領(相続)
し、永久元年(1113)ここに一宇を建立、10年後には数々の堂塔伽藍も完成し、保安3年(1123)白川法皇の院宣をもって盛大な伽藍供養が行われた。

 「城興寺古伽藍図」に見る当時の寺容は、周囲を築地塀で囲い、九条大路に面して南大門が、中央一列に放生池・仁王門・金堂・講堂と、東側に多宝塔と鐘楼が、西側に御影堂、北側には庫裡や数々の僧坊など、堂塔伽藍が建ち並ぶ立派な寺院であったようだ。
 その後、天台座主最雲親王法親王(白河法皇の)がこの寺を伝領したが没後その弟子以仁王が受け継ぐ。しかし、平清盛が治承3年(1179)の動乱でその知行権を没収して他に与えたことから、平家討伐「以仁王の宣旨」の大きな原因となった。

 平氏滅亡後、城興寺は以仁王の子真性に受け継がれ、16世紀の記録によると寺領は比叡山不動院の管理下におかれたとある。
 中世、平安の都は荒廃し、東九条は次第に京外となり城興寺も衰退、さらに応仁の乱で焼亡して全く昔日の感を失った。そしてうち続く戦乱に烏丸通り沿いに濠を構えてわずかに一堂を残すだとなった。
 江戸時代、庶民の間に信仰と遊山の目的で「洛陽三十三ケ所観音霊場めぐり」が盛んとなり、当寺の本尊千手観音(秘仏)は第二十二番札所として、善男善女で大いに賑わったようだ。観音像は、慈覚大師円仁(794~864)が承和5年(838)、遣唐使の一員として入唐した時、無事の帰朝を念じて船中で造作したと伝えられている。

薬師如来像は、弘法大師作と伝えられている。天長六年全国に大疫病流行し、淳和天皇が弘法大師に祈祷を命じ、大師勅を受け此の尊像を作り祈祷したところ大疫忽ちにやむ。このほか、不動明王像は平安末期の作らしいが、作者は不明。

 所在地:京都市南区東九条烏丸町7-1。
 交通:地下鉄烏丸線九条駅2番出口前。京都市バスで大石橋より徒歩2分。JR京都駅八条口より徒歩5分。

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