6月2日付の朝日新聞文化欄に、
「協調と心地よさと 変わる日本の環境思想」という記事が載っている。
詳細は直接読んでいただくとして
その主旨は、
「不都合な真実」のロングランなど、環境問題への関心の高まりはめざましい。新しい活動も起こっている。それには「一世代前の反公害闘争やその後の反原発運動とは大きく異なる特徴があ」り、それは「経済成長の『壮大な物語』が破綻した中で、矛盾を抱えながら幸せの意味を問い直している。かわいそうな弱者の救済でなく、『自分自身が新しい物語を生きる』試み」であり、「企業や行政と対決ではなく協調していこうとする姿勢も鮮明」というもの。
記事では、鬼頭秀一・東大教授の異論も載せている。
「92年の地球サミット以来、国際的には先住民差別など社会的不公正と環境汚染や貧困とのかかわりを問う『環境的正義』の議論が成熟してきた。『でも日本ではそうした変化が反映されない。環境を政治的争点として受容しないからです。対立があるという認識に欠け、ムードが先行する』」
環境経済学の宮本憲一・大阪市大名誉教授の論文も紹介されている。
「公害は終ったとして国が環境政策の中心を地球環境問題においた時点で、発生源の責任を社会経済システムから文明一般に変え『拡散』させた」
記事は
原子力資料情報室の伴氏の「新たな環境問題への関心のうねりを『肯定的にとらえたい』」との発言、自らも青森・六ヶ所村の核燃料サイクル施設の反対運動に取り組む音楽家の坂本龍一氏の「次は『行動をうながす局面に入っ』てくる」との言葉で締めくくっている。
「自由で不定形な新たな思想の『その先』が問われている」とのことだ。
記事の主張は、“バランス”を取りつつも明確だ。
それは、見出しの「協調と心地よさとー変わる日本の環境思想」に表れている。
・企業や行政と対決でなく協調していこうとする姿勢も鮮明だ
・企業が加害者、市民が被害者だった時代と違って・・・
これらは、現実の描写や、取材した代表者の言葉に形を借りて、「記者の思想」を述べている。
しかし、記者の批判は、極めてステレオタイプ、余りにも固定的でないか、
私自身の体験でも、これまでの「一世代前の運動」も、そんなに紋切り型ではなかったと思う。
例えば、
私たちが取り組んだ「大文字山ゴルフ場建設反対運動」
京都市左京区にある、五山の送り火で有名な大文字山の東側に
ある企業がゴルフ場を作ろうという動きが、1988年の夏、突然明らかになり、
私たちは、ゴルフ場での農薬使用の問題や
花崗岩が風化した、もろい地質の現場(白川上流)の開発は、
大きな災害を引き起こす可能性があることなどを訴え、反対運動を始めた。
“こんな所にまで乱開発の手が伸びるのか!”
これは、別に「かわいそうな弱者」のための運動などでなく、心地よさを確保し続けたいという私たちや市民の思いが土台をなしていた。
言われるように、はっきりした「建設反対運動」だが、
活動は、そんなに心地の悪いものではなかったし、大文字山の自然に触れながら、結構心地よいものだった。
“心地よさ”はそれぞれで
そんなにバッサリ決めつけないでほしい、ですね。
記者は、大文字山に登ったことがありますか?
先日も、子連れの若い夫婦や、元気なお年より、少年たちのグループや若者が
たくさん大文字山を登っていました。
上り口の湧き水も、よく利用されています。
朝早くから近所の方がたくさん登ってこられ、水を汲んでいく方もおられます。
こうした私たちにとって
「大文字山の上のゴルフ場」は、決して心地よいものではありませんでした。
だから、「建設反対」でした。
京都市は、これを推進する立場でしたので
言われても、簡単に「心地よく、協調」とはいきませんでした。
運動は、心地のよさを引き続き確保するための運動でした。
これは「昔の話」で、今は「企業が加害者、市民が被害者だった時代とは違う」?
そんなことはないと思います。地球温暖化問題でも、石油やエネルギーは使い放題、一方で、それが引き起こす地球環境への負荷について、市場に反映される仕組みづくりにはあくまで反対する日本の産業界、こうした状況はもっと明らかにされていいのではないでしょうか。「経団連」は、温室効果ガスの排出目標は、あくまで「自主目標」に固執し、その結果、日本は6%削減の達成さえ、そのメドが立っていません。今私たちが迎えている状況を考えた時、こうした問題は、もっと問われていいと思いますし、その時、「協調」ばかりでは、力になりませんね。
私も、伴氏が言うように、新たな関心のうねりを、肯定的にとらえますし、坂本氏の言うように、「次は『行動をうながす局面に入っ』てくる」と思っています。
だから、
この記事の見出しは、次のようにしたらどうでしょうか。
「社会変革と心地よさとー広がり見せる日本の環境運動」
いかがですか?
「協調と心地よさと 変わる日本の環境思想」という記事が載っている。
詳細は直接読んでいただくとして
その主旨は、
「不都合な真実」のロングランなど、環境問題への関心の高まりはめざましい。新しい活動も起こっている。それには「一世代前の反公害闘争やその後の反原発運動とは大きく異なる特徴があ」り、それは「経済成長の『壮大な物語』が破綻した中で、矛盾を抱えながら幸せの意味を問い直している。かわいそうな弱者の救済でなく、『自分自身が新しい物語を生きる』試み」であり、「企業や行政と対決ではなく協調していこうとする姿勢も鮮明」というもの。
記事では、鬼頭秀一・東大教授の異論も載せている。
「92年の地球サミット以来、国際的には先住民差別など社会的不公正と環境汚染や貧困とのかかわりを問う『環境的正義』の議論が成熟してきた。『でも日本ではそうした変化が反映されない。環境を政治的争点として受容しないからです。対立があるという認識に欠け、ムードが先行する』」
環境経済学の宮本憲一・大阪市大名誉教授の論文も紹介されている。
「公害は終ったとして国が環境政策の中心を地球環境問題においた時点で、発生源の責任を社会経済システムから文明一般に変え『拡散』させた」
記事は
原子力資料情報室の伴氏の「新たな環境問題への関心のうねりを『肯定的にとらえたい』」との発言、自らも青森・六ヶ所村の核燃料サイクル施設の反対運動に取り組む音楽家の坂本龍一氏の「次は『行動をうながす局面に入っ』てくる」との言葉で締めくくっている。
「自由で不定形な新たな思想の『その先』が問われている」とのことだ。
記事の主張は、“バランス”を取りつつも明確だ。
それは、見出しの「協調と心地よさとー変わる日本の環境思想」に表れている。
・企業や行政と対決でなく協調していこうとする姿勢も鮮明だ
・企業が加害者、市民が被害者だった時代と違って・・・
これらは、現実の描写や、取材した代表者の言葉に形を借りて、「記者の思想」を述べている。
しかし、記者の批判は、極めてステレオタイプ、余りにも固定的でないか、
私自身の体験でも、これまでの「一世代前の運動」も、そんなに紋切り型ではなかったと思う。
例えば、
私たちが取り組んだ「大文字山ゴルフ場建設反対運動」
京都市左京区にある、五山の送り火で有名な大文字山の東側に
ある企業がゴルフ場を作ろうという動きが、1988年の夏、突然明らかになり、
私たちは、ゴルフ場での農薬使用の問題や
花崗岩が風化した、もろい地質の現場(白川上流)の開発は、
大きな災害を引き起こす可能性があることなどを訴え、反対運動を始めた。
“こんな所にまで乱開発の手が伸びるのか!”
これは、別に「かわいそうな弱者」のための運動などでなく、心地よさを確保し続けたいという私たちや市民の思いが土台をなしていた。
言われるように、はっきりした「建設反対運動」だが、
活動は、そんなに心地の悪いものではなかったし、大文字山の自然に触れながら、結構心地よいものだった。
“心地よさ”はそれぞれで
そんなにバッサリ決めつけないでほしい、ですね。
記者は、大文字山に登ったことがありますか?
先日も、子連れの若い夫婦や、元気なお年より、少年たちのグループや若者が
たくさん大文字山を登っていました。
上り口の湧き水も、よく利用されています。
朝早くから近所の方がたくさん登ってこられ、水を汲んでいく方もおられます。
こうした私たちにとって
「大文字山の上のゴルフ場」は、決して心地よいものではありませんでした。
だから、「建設反対」でした。
京都市は、これを推進する立場でしたので
言われても、簡単に「心地よく、協調」とはいきませんでした。
運動は、心地のよさを引き続き確保するための運動でした。
これは「昔の話」で、今は「企業が加害者、市民が被害者だった時代とは違う」?
そんなことはないと思います。地球温暖化問題でも、石油やエネルギーは使い放題、一方で、それが引き起こす地球環境への負荷について、市場に反映される仕組みづくりにはあくまで反対する日本の産業界、こうした状況はもっと明らかにされていいのではないでしょうか。「経団連」は、温室効果ガスの排出目標は、あくまで「自主目標」に固執し、その結果、日本は6%削減の達成さえ、そのメドが立っていません。今私たちが迎えている状況を考えた時、こうした問題は、もっと問われていいと思いますし、その時、「協調」ばかりでは、力になりませんね。
私も、伴氏が言うように、新たな関心のうねりを、肯定的にとらえますし、坂本氏の言うように、「次は『行動をうながす局面に入っ』てくる」と思っています。
だから、
この記事の見出しは、次のようにしたらどうでしょうか。
「社会変革と心地よさとー広がり見せる日本の環境運動」
いかがですか?