アイリス あいりす 

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【創作】父とわたし 父の望郷の土地

2020-08-07 23:23:21 | 創作文

「父とわたし」は数年前に書き置いたものです。私は小学校5年までは田舎で過ごした後、都会へ引っ越しをしました。父とわたし達姉妹がどのように過ごしたのかを、私の子供達へ残すつもりで書き記したエッセイです。

      

         父の望郷の土地         

 

父は若い頃、昭和の戦争の中で生きてきました。その地は中国大陸です。中国と国交が正常化されると、父は「北京に行きたい。」と言って、私を驚かせました。詳しい話を聞かなかったことを、いまでは悔やまれるのですが、父は貨物列車の中の荷物の間に、隠れるようにして逃げてきたと言っていました。駅に止まると、必ず中国兵がドアをあけて中を調べたそうです。その度に息を殺して、見つかって殺されるかもしれないと、何度も思いながら帰国したと、聞いています。そんな風に、命からがら引き上げてきたのに、どうしてまた平和になったからと言って、行きたいなどと言ったのでしょうか?

行く理由を聞きませんでした。ただ父がそういった時に、不思議な感触を覚えているのですが、まるで故郷を思うかのような顔をして、笑顔で遠くを見るような目をしていました。

父は結局は北京に行くことなく、この世を去っています。

私は20代の頃、「人間の条件」五味川純平著を読んでいます。それはビルマの竪琴を読んだ後でしたが、本当の戦争の内容を知ったのです。それまでの小説はまるでオブラートに包まれているかのように、思いました。そして私は父に問うたのです。父にその本を読んだ事と少し感想をいい、「戦争に行って、お父さんも人を殺したの?」と、あまりにも率直な言葉に、父は少し黙っていましたが、やがて本当の事を話してくれました。本当にそんなことがあったのだと、私は若かったからでしょう。その後ずいぶんと悩みましたし、父親を理解できないくらい考えてしまいました。戦争は確かに悲惨で、むごくて、人間を獣に変えるしかない状況へと追いやられるものです。そしてそれは正義の為という、信仰のようなものを植え付けられていたのです。

父の人生はこうして、引き上げてから結婚し、私達が生まれて来たのです。

私に息子達が生まれた時、父は泣いていました。そして「生母の母から、息子が生まれてだめだったとき、戦争で人を殺したからだ。」と言われて辛かったと、話してくれました。父は男の子を望んでいました。「息子が生まれていたら、キャッチボールをしたかった。」と笑いながら話してくれたこともありました。

生母の母は、父を責めたのではないと思います。当時の環境がそうだったのですから、若い二人を慰めるつもりで言ったのでしょう。しかし父は自分への諫めのように思ったのでした。それは父が胸に秘めていた苦しい思いだったと思います。

姉と私はそれぞれ息子達を授かりました。ですから、父は自分の罪が許されたように思ったのではないでしょうか。

父が亡くなった時、そして3人目の母も亡くなった時に、父の戦友の一人が葬儀に来てくれました。朝の新聞で葬儀があることを知ってきたと、言ってくれました。そして彼もやはり、「もう、誰も話す相手がいなくなってしまった。」と言い男泣きをしていました。3人目の母が残ってから、その戦友は毎年お盆にお線香をあげに、実家に来てくれ、3人目の母と父の話をして懐かしんでいたのでした。

そうして、父は私達の前から消えてしまいました。

でもきっと、あの歌のように今では風になって、北京へもいったりしているのかもしれません。

おとうさん、色々あったわね。お父さんも辛い人生だったじゃない、だけど3人目のお母さんが言っていましたよ。「私はおとうさんが好きだった。」って、よかったわね。最高じゃないの!

 

 

 

 

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