アイリス あいりす 

社会問題 日々雑感 家庭料理 健康管理

日本共産党 元日本軍の慰安婦公文書182点を入手

2017-04-28 13:27:10 | 天皇まんざーい

 

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-04-27/2017042714_01_1.html

日本共産党の紙智子参院議員は26日までに、元日本軍「慰安婦」問題で国立公文書館が新たに内閣官房に提出した公文書19件182点を入手しました。


写真

(写真)国立公文書館から内閣官房に提出された公文書

 

 元日本軍「慰安婦」問題では、多くの市民、研究者によって膨大な関係資料が発見され、研究されています。今回、内閣官房に提出されたのは、そのうち、東京裁判やBC級戦犯の裁判の記録の一部です。次のような記述があります。

「認識変えない」

 「本人の自由意思に反してキャンプから連れてきた婦女子を遊女屋に入れることを容認したと言うことは、婦女及び娘達は、自己の意思に反してスマランの遊女屋に入れられたものであり、(中略)彼女等は、如何なる条件の下にも遊女屋を出ることは許されず監禁され(中略)或は強姦或は悪待遇で売春を強制されたことが判明している」(バタビア裁判106号事件)

 「戦中の前後約四ケ年間に二百人位の婦女を慰安婦として奥山部隊の命により、バリ島に連れ込んだ」(バタビア裁判25号事件)

 これらは、日本政府も判決を受け入れている裁判の判決文などの記述です。

 政府はこれまで、政府として「慰安婦」問題の調査を行っている部署である内閣官房副長官補室に文書がないことをもって、「『慰安婦』の強制連行を示す記述のある文書がない」と説明してきました。今回の文書についてもこれまでの「強制連行を示す記述は見当たらない」とする政府の認識を変えるものではないとしています。

隠せない犯罪性

 強制連行を示す記述のある文書の存在を政府に認めさせる取り組みを続けてきた日本軍「慰安婦」問題解決全国行動の小林久公さんは「日本政府が加害事実を認める以外に解決はできません。今回、だれが読んでも軍の関与と強制連行の事実が明白な文書を内閣官房が入手しました。本当にこの問題の解決をめざすなら、政府は、新しく入手した資料に記述がありましたと言えばいい。政府に『慰安婦』問題を解決する気があるのかどうかが問われるのです」といいます。

 同行動の梁澄子さんは「そもそも連行時に強制があったかどうかは問題の本質ではありません。『慰安婦』は国家が戦争を遂行するために戦争犯罪の犠牲者にさせられた。そのことがら全体の犯罪性は覆い隠せないのです」と強調します。

 紙氏は「政府は日韓合意ですべて終わったことにしようとしているが、日本政府が加害の事実をきちんと認め、謝罪し賠償し、真相究明と再発防止を約束しないかぎり終わらない問題です。被害者が納得できる解決のために力をつくします」と決意をのべています。(荻野悦子)

 =========
♬ 責任を取らないで、うにゃむにゃにするのは、嘆かわしいです。
そして、この問題について男性のほとんどが、知らない顔をしてしているのです。
自分のしてきたことが、もしかしたら心に刺さるからでしょうか?
 
日本人の慰安婦もいましたし、あめゆきさん、からゆきさん(天皇が女性を売り飛ばした)も同じ根っこからでています。
(私は中学生になってすぐに、この話を親戚のおばの年上の友人からの手紙として、聞いています。彼女は信じてアメリカに行き、売られたことに気が付き、あとから来る可能性のあるおばに手紙をくれたのです。しかも親や親戚には内緒にしてほしいと、書かれていたそうです。)
天皇はこれで、莫大な利益を得ていました。無論財閥系大企業もです。あの皇居はそのお金で建物をつくったそうです。
 
もっと昔には、キリシタン大名がいました。彼らは女性を売って武器弾薬と交換していました。
そのことを知った、秀吉はキリシタン大名を弾圧したのです。
今公開されている、キリシタンが弾圧された歴史の映画は、
弾圧された、本当の事実が隠されているのです。
これは、ドイツで起こった事と似ていますね。
被害者はいつも同じです。そうやって考えを植え付けています。
 
「歴史は支配者によって作られる」
 
 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

訪ロシア 安倍・プーチン会談 「北朝鮮について」

2017-04-28 11:41:46 | 社会問題 日々雑感

 

https://jp.sputniknews.com/politics/201704283583869/

プーチン大統領は「安倍首相との会談では、朝鮮半島情勢が話し合われた。露日双方は、この地域の問題にかかわるすべての当事者に、建設的対話を目指すよう求め、6カ国協議再開が共通の課題であると見ている」と述べた。

スプートニク日本

 

プーチン大統領は、安倍首相との会談を総括した中で、次のように述べた-

「朝鮮半島情勢が、個別に触れられた。私と安倍首相の意見では、残念ながら、情勢は深刻な悪化を見せた。我々は、この地域の問題にかかわる国家すべてに対し、好戦的な発言を抑え、やかで建設的な対話を目指すよう求める。 ロシア政府と日本政府は、一日も早い6カ国協議再開を共通の課題としみなしている。」

またプーチン大統領は、日本企業や銀行部門の代表者を、東方経済フォーラムやペテルブルク国際経済フォーラムを含めたロシアの巨大フォーラムに招待し、次のように述べた-

「我々は、日本の企業や銀行の大型代表団を、ペテルブルグやウラジオストクでのロシアの巨大経済フォーラムでお待ちしている。

+++++++++++

♬ テレビではロシアの欲望を報道しています。中国が制裁を始めたら、ロシアがそれに変わって

いるなどです。

真面目にテレビのニュースを見ていれば、プーチンの言わんとしていることは、伝わるはずです。

ですが、西側のプロパガンダが頭に入っていると、真実が見えなくなってしまいます。

それは以前の私の姿なのです。

心を開いて、その人の言葉だけで考えることが、とても大切だと痛感しています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロシアに残った日本兵 「残った片目で日本をみたい」

2017-04-28 11:20:02 | 社会問題 日々雑感

https://jp.sputniknews.com/opinion/201704283583765/

ロシア欧州部レニングラード州のポギ村に、ピョートルという名の一人暮らしの年金生活者が住んでいる。もし彼が、日本生まれのタナカ・アキオさんでなかったなら、何も驚くことのないロシアの片田舎の老人にすぎない。彼は今年89歳だが、70年も日本に戻っていない。しかし故郷を夢見る気持ちは大変強い。彼を取材した記事が、週刊新聞「論拠と事実∸サンクトペテルブルク」に先日掲載された。また編集部は、彼の存在をペテルブルクの日本総領事館に伝え、彼が祖国に帰る手助けをしてほしいと要請した。

スプートニク日本

 

同紙のアルチョーム・クルトフ記者は、次のようなタナカさんの言葉を伝えている-「残った片目でひと目でも日本を見てみたい!私の祖国がどんな風に変わったか、日本人が今どんな生活をしているのか見てみたい。特に桜の咲くところを見たい。桜は私にとって、ロシア人にとっての白樺のようなものだ。ただの木でもなくシンボル以上のものだ。私にとって、生まれや歴史、根っこにつながる何か聖なるものだ」。

クルトフ記者は、スプートニク記者に対し、次のように話している-

タナカさんへの取材は、全くの偶然だった。『ヂェツコセリスキイ』ソフホーズについてのルポルタージュを作っていた時、隣の『フョードロフスコエ』ソフホーズの働き手の一人が彼らに土地を寄贈し、その人物が日本人だと知ったのがきっかけだった。この情報に、私は興味を抱き、彼のことを探し始め聞いて回り、全部で通りが4つしかない村に行って、ついに彼と会う事が出来た。彼は今、ピョートル・タナカと名乗っている。彼は私に、自分の人生について語った。今年の8月に、彼は満90歳になる。我々は、彼の秘められた最大の夢がかなうよう手伝いたいと強く思った。

タナカ・アキオさんは、1927年北海道の江別に生まれた。父のタナカ・トミイチ氏は、江別と札幌に旅館を所有していた。母は、アキオさんが幼い時に亡くなっている。その後、父は再婚。アキオさんと継母との関係はうまくいかなかった。17歳になり学校を終えるとすぐ、彼は、志願して関東軍に入隊、彼本人の言葉によれば、前線では死を恐れぬ戦いぶりで、金の星の勲章をもらい、軍曹となった。1944年彼は、砲弾の破片で負傷し、片眼が見えなくなった。そして1954年8月、関東軍60万の将兵と共に、ソ連軍の捕虜となり、中国からハバロフスクに送られた。

 

タナカさんは週刊新聞「論拠と事実」のクルトフ記者に、終戦後の状況について次のように話している-

10年間、ラーゲリで過ごした。第16収容所だった。他の軍人捕虜と一緒に、森林伐採作業をした。私達は、殴打されたりせず、食事も時間通り与えられ、扱いは良かった。その後、捕虜の解放が始まり、兵士達は船に乗って日本に帰還して行った。一方ほとんどすべての指揮官は、現地に残った。我々は、祖国に帰れば裏切り者として絞首刑となるか、銃殺されると信じていた。

ラーゲリから解放された後、タナカさんは、ウラジオストクに移り、そこでソ連のパスポートを取って、アキオに代わりピョートルというロシアの名前になった。ウラジオで彼は、エンジン係となる勉強をし、旅客船「イワン・クリビン」号で働き始めた。1960年代半ば、タナカさんは、ウラジオから今度はレニングラード州に移り、ソフホーズ「フョードロフスコエ」での仕事を得た。

Инфографика Танака-сан

ここでの生活をタナカさんは、次のように回想している-

多くの職業を経験した。牛の放牧もしたし、ボイラーマンも、電気工もやった。そんな風に過ごし、毎日があっという間に過ぎて行った。良心的な働きでだと評価され、何度も、黒海沿岸の保養地で無料で休暇を過ごした。ソフホーズでは18年働き、年金生活に入った。

現在タナカさんは、ポギ村の小さな一部屋のアパートに一人で住んでいる。その長い人生の間、彼は何度か結婚したが、すべての妻に先立たれた。子供達については、語ろうとはしなかった。彼が頑固に話そうとしなかったのは、このテーマだけだった。

日本から離れ長い年月が流れたが、タナカさんは、自分の日本の親族を見つけたいとの希望を失ってはいない。彼は、次のように述べている-

 

1970年代に、レニングラードの日本総領事館に行って、自分の身の上を話したことがあった。領事館は、日本に連絡し調べてくれた。それにより、父は大分前に亡くなっていることが分かった。姉妹に手紙を書いたが、返事は来なかった。恐らく今も、私を裏切り者だと思って、許せないのだろう。我々の習慣では、捕虜となった者の家族は皆、私を恥と感じるからだ。

 

第2次世界大戦終結から70有余年が過ぎた現在、90歳の誕生日を前に、タナカさんは、祖国をひと目見たいと願っている。日本総領事館は、日本国内でタナカさんの親族を見つけ出そうと努め、地元の慈善団体は、タナカさんの祖国訪問実現に向け、資金集めを始めている。

++++++++++++

♬ 田中あきおさんが日本に来られるといいですね。

ロシアに残る経緯もありました。そして何よりも真面目で一生懸命働く人だったのですね。

それにしても、子供のことは固く口を閉ざしているということですから、きっと音信不通なのかもしれないですね。

ロシアに限らず、昔気質の日本人が子供を持つことは、子供にとっても日本人を理解することが、難しいのではないでしょうか?

日本人はハグをしませんし、そういうことが自然にできる国民の中で、子供は自分が愛されていないと、感じるのかもしれません。

とにかく、北海道の桜が咲く頃には、田中さんが帰国できることを祈ります。

見つけてくださった、記者の方の尽力に日本人として感謝いたします。

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする