http://1950rekisi.blog.so-net.ne.jp/2014-01-19-4 より転載しました
六世紀に百済から仏像やお経が伝わって来てからも
最初の内は仏教は中々広まり難かったようです。
というのも仏教を信じるか信じないかで、
蘇我氏と物部氏の争いがあったり敏達天皇のように
仏教に熱心でない天皇がいたりしたからです。
しかし、585年には聖徳太子の父であり
仏教に熱心な用明天皇が位に就きました。
また587年には仏教に反対だった物部守屋が滅ぼされました。
そのためこの頃から仏教が非常な勢いで広まって行きました。
聖徳太子が摂政になったのは丁度こういうときでした。
聖徳太子は父の用明天皇と同じように
厚く仏教を信じ、また研究もしていました。
しかも太子は自分一人で
仏教を信じているだけでは満足しませんでした。
仏教の力を借りて社会の不安を沈め人々の心を和らげて
住みよい国土をつくりあげようと考えていたのです。
七世紀のはじめ太子は大和(奈良県)の斑鳩の地に法隆寺を建てました。
寺を建てたばかりでなく仏教の研究にも力を入れ
天皇にお経の話をしたり、三経義疏(さんぎょうぎしょ)という
お経のことを説明してそれを自分のものにしていたということがわかります。
仏教の平和を尊ぶ考えは摂政としての太子が最も大切にしたものでした。
推古天皇以前にも蘇我氏の建てた法興寺のように寺はありましたが、
聖徳太子は皇室でも寺を建てて仏教を広めようとしました。
寺を建てるにはその建築や彫刻などにたくさんの費用がかかります。
しかし、寺を建てるということはその頃としては立派な文化事業でした。
ですから皇室が寺を建てるということは皇室が文化を
推し進めているということになり、都合がよかったわけです。
聖徳太子の建てた法隆寺はその優れた建築や
彫刻で有名ですが今残っている建物は
670年に一度焼けてから建て直したものです。
その金堂(寺の中心となる仏を祀っておく建物)は
七世紀の終わり頃に、また五重塔は八世期の
初め頃に建て直されたものと思われます。
しかし、その建て方は焼ける前のものと
ほぼ同じだと言われていました。
ですから今の法隆寺を見れば大体の
聖徳太子の建てた法隆寺を
思い浮かべることが出来るのです。
また、例え建て直したものだとしても
これが世界一古い木造建築であることは確かです。
さらに寺にある釈迦三尊像や
薬師如来像・四天王像などの
彫刻もその頃につくられたもので
しかも第一級の美術品です。
その頃の豪族や人民は聖徳太子が建てた
法隆寺を見て文化を導くものは
皇室だという感じをはっきりともったことでしょう。
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♫ おおよその聖徳太子が仏教を取り入れようとしていた経緯はこれで、解ると思います。
しかし推古天皇(聖徳太子のおば)も用明天皇(聖徳太子の父親)も仏教に親しんでいたようです。これは仏教という魅力を彼らが知ったからですね。
では天皇家は神道というのは、どうなんでしょうか?
蘇我氏はすでに寺を建てていました。物部氏は神社を建てていました。そして天皇家の祭祀を取り仕切っていたのです。
天皇家は本当にこの時、自らの祭祀として神道だけを重んじていたわけではないようですね。
仏教の教えに心ならずも、心を動かされその経典に共鳴することがあったのではないかと推察できます。
聖徳太子が仏教を取り入れようとした時に、仏教の取り入れに賛成した蘇我氏と物部氏の戦いに、蘇我氏が勝てば、四天王寺を建立することを誓い、望みが叶ったことからたてたのが、この四天王寺です。
推古天皇、聖徳太子、聖徳太子一族が相次いで亡くなっています。
それは、蘇我氏が物部氏によって、先の大戦の報復をうけ、滅亡となってからです。
多くの仏教がこの日本に入って来ていたはずですが、法隆寺の謎と、伝説のようにして伝わっているのは、人々にこの法隆寺について並々ならない物を伝えているのです。
普通のお寺ではないこと。不思議なお寺であること、そいうことからして人々は聖徳太子という人物を知って行くのです。
最近は聖徳太子はいなかった説まで飛び出しているのですから。
なぜ、聖徳太子は仏教を日本に取り込むことにしたのか?
なぜ聖徳太子は神道だけではなく、仏教をも信仰したのか?
神道と、仏教の違いがそこにあると思いました。
私達は、この日本の社会で、神道と仏教のミックスした社会形成を毎年違和感なく、すごしてきました。実に宗教についてはあいまいな、私達です。
ですから、神道も仏教も大差ないように、同じように考えてしまっていましたが。
実は仏教と、神道には大きな違いがあるのではないでしょうか?
それ故に、聖徳太子は神道だけではなく、仏教という文化を取り入れようと力を注いだのです。それはきっと神道にはないものが、仏教にはあったということではないでしょうか?
釈迦とはいったいどんな人だったのでしょうか?
仏教の魅力は何でしょうか?
今の日本の仏教は本来の仏教を残しているのでしょうか?それとも神道に乗っ取られているのでしょうか?
梅原猛氏の「隠された十字架。法隆寺編」ではそのことについては、何も言及はしていませんが、
私の単純な宗教の勉強もしていない人間の感想ですが、大阪の四天王寺での聖霊会での様子がこちらです。
この四天王寺は聖徳太子が建てたお寺です。
四天王寺 聖霊会舞楽大法要-2014
この聖霊会の舞楽をみて、皆さんはどう思われますか?神社の舞楽だと思いませんか?
これはどう見ても、神社で行われている舞楽です。これが四天王寺という寺で行われているのです。「昔から行われていたのですから。間違いはないはず。」ときっと多くの方はいうでしょう。「聖徳太子は皇族だったのだから。」と言う意見もあるはずです。
真っ当なようで、真っ当でない隠されたものがあることを、梅原猛氏は唱えていますので、私はこれらも、不可解に思うわけです。
謎は深いものがあります。
それは日本の歴史の深~い闇かもしれません。
昭和天皇が放った言葉に「神道は飾りのようなもの」というのがあります。