水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

ばかもの

2010年12月23日 | 演奏会・映画など

 昨日、東京吹奏楽団の演奏会に行かせてもらおうかと思ったが、荻窪19:00にはちょっと間に合わないかなと思い、新宿で「ばかもの」を鑑賞した。
 絲山秋子さんの原作はすごいおもしろかった記憶があるので。
 帰りの電車で読んでた日垣隆氏の一節はタイムリーなお言葉だ。

 ~ 恋愛時にはドーパミンという神経伝達物質が深く関与しており、もともとドーパミンは執拗さや中毒や依存の活性因子なのである。したがって「恋愛中毒」や「恋愛依存」という表現は同義反復とならざるを得ない。恋愛は中毒そのものなのである。中毒でない恋愛はない。だからと言って恋愛を悪とは決めつけられない。(日垣隆『こう考えれば、うまくいく。』) ~。

 恋愛状態とは、特定の対象者に、この人がいないと自分の存在そのものの意味まであやしくなってくると思ってしまう状態だから、まさしく中毒そのものだ。
 そういう状態の自分が他人からどう見られているか、などという客観的な目はもてなくなるのも含めて、まさしく依存「症」といえる。
 「症」なので治癒されることもあり、ていうか恋愛はふつうは治療しなくても時の流れとともに自然治癒するのが普通で、その後どうなるかについては、さだまさし「恋愛症候群」にあるとおり、なんでもなくなるか、一段高い愛のレベルに進むかという方向性の二つ。
 結婚相手としてこの人は自分にふさわしいだろうか、という問いを行う状態に入ると、もはや恋愛とはいえない。
 一方的な恋愛状態は、その対象者がまったく相手にしてくれない場合とか、相手がいなくなってしまう場合に、危険な禁断症状を呈することになる。
 「ばかもの」の主人公ヒデくんは、学生時代に年上の額子と知り合い、肉体関係を結んだあとは二人の世界にのめりこむようになる。
 しかし、ある日突然結婚を理由に額子は去っていく。
 依存の対象を失ったヒデくんは、だんだんと酒におぼれるようになり、依存症となっていく。
 友人と喫茶店で話すときに、コーヒーではなくビール瓶がおいてあるのは自然なのだが、それが依存状態だとすると、ちょっと気をつけないかなと思った。お正月も朝から飲むのはやめようっと。
 ヒデくんの友人の女子大生を中村ゆりさんという女優さんが魅力的に演じている。
 ヒデくんの在籍する大学に似合わない明晰な頭脳をもち、株の売買でお金を貯めて大学を中退していくのだが、新興宗教の世界に入っていき、最後はその教壇内のリンチにあい短い生涯を閉じる。
 ヒデくんが額子とわかれた後に知り合った女性は中学校の先生。ヒデくんとの結婚を夢見ながら、酒におぼれていくヒデくんをなんとか自分のもとにとどめておこうとする。
 アル中とよばれるような人を見かけたなら、ふつうは眉をひそめ、なるべく関わらないようにするのが一般的な態度だろう。
 でも、ふと思うのは、何にも依存しなくて生きている人っているかな。
 その対象が仕事だったり、世間から価値を認められているものであったりすれば、誰も文句を言わないだけで、依存していることは同じだとはいえないか。
 依存の内容に、酒、ギャンブル、お金、宗教、恋愛、仕事、部活、政治、思想、家族、子供、結婚、社会的地位といろいろあるだけなのではないだろうか。
 むしろ依存できるものがあれば幸せという言い方もできるとさえ思う。
 映画は「ノルウェイの森」よりも、ずっと素敵な作品でした。R15が適当と思います。

コメント
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