学年だより「100万分の1の恋人(3)」
ある人と出会い、新しく家族をつくるということは、人生のすべてを受け入れることと同義だ。
自分側に予想外の事件や試練が起こることもありうる。
ただし、夫婦であるならば、別々の道を歩き直すという選択肢もある。
親子の場合は、基本的にはそうはいかない。
自分が望んだタイプの子どもでとして生まれなかった、もしくは育たなかったからといって、縁を切るわけにはいかない。
冷静に考えてごらん、皆さんの親御さんだって、覚悟をもって育ててくださったではないか。
ひょっとしたら、かわいい女の子がほしかったわ、こんなにオヤジくさくなってしまって、ごはんばっか食って…とか思われたことがあるかもしれない。
もっと勉強しなさいとか、しゃきっとしなさいとか、文句ばかり言うなとか、もしかすると今も思われているかもしれない。みなさんにしても、親うざいと思ったことがあるやもしれぬ。
それでも共に生きてきたのだ。その距離感は家族によって様々な形があっていいが、親子の縁を無にすることはできない。
親子として共にすごしてきたことは、何らかの縁に導かれた「仕合わせ」なのだ。
~ 「今まで、話したことなかったけど、私、ときどきこうやって真っ暗闇の中で、お風呂入るんだ。何も見えない中でお湯に包まれていると、少し安心する」
声の向こうから、またあの水の流れるような耳鳴りが聞こえた。二人、肌を寄せながら闇の中で聞くと、耳鳴りも、どこか穏やかな音に聞こえた。
僕はミサキの身体を優しく抱き締めた。
「なんだか、双子みたいだ」
僕はそうなりたいと思った。ミサキの遺伝子も運命も、その身体も心も、すべて共有したい。ひとつに溶け合いたい。この胎内のような闇の中、漂う湯水の中に、静かに溶け合ってひとつになりたい。 ~
私たちはそれぞれの物語を生きている。物語とは因縁だ。
西洋的なひびきをもつ「運命」というよりも、「因縁」「宿縁」という言い方の方が、人生の真実を言い当てているように思える。
今後の長い人生で、たくさんの出会いがあるだろう。
この人と家族になりたいという願いを抱くこともあるだろう。それが叶っても、かりに叶わなくても、それは自分の因縁だと受け止める覚悟をもっていればいい。
目の前の仕合わせを大事にできる人には、これからの人生で別の仕合わせも訪れる。
みなさんが、この先たくさんの人と出会い、仕合わせな人生を過ごせるようにと祈っています。
3年間読んでいただき、ありがとうございました。卒業おめでとう!