学年だより「メッセージ(1)」
たぶん誰もが「黒歴史」はもっている。
なかったことにしたい過去、誰にも触れられたくない出来事、思い出したくない失敗の経験を。
他人には死んでも掘り返してほしくはないけれど、自分の中では時折切ない痛みとともによみがえってくる。
二度と繰り返さないようにしようとか、同じシチュエーションに出会ったときは対処の仕方をかえようという力となってそれは働くから、けっして「黒」ではなく、糧になっている。
むしろ、そういう失敗の蓄積が自分という器を大きくするのだから、過去の意味、過去の価値を決めるのは現在の自分だといえる。
逆に未来の自分がどうなるかを、確信もって答えられる人はいない。
わからない度合いの高さで言えば、まさに「一寸先は闇」、未来の方がよほど「黒」かもしれない。
とは言いながらも、実際には多くの人が「未来の自分」を見ている。
今の延長上にしか、未来の自分は存在しえないからだ。
思い出は、客観的にはすでに存在しない。自分の脳内で再生されるだけだ。
では、未来はどうだろう。当然現時点では存在しない。
しかし、それぞれの脳内でイメージをつくることはできる。
脳内にしか存在しないという点では、過去も未来もそんなには差が無い。
自分が描いた未来像を極力明確なものにし、その実現に必要なことを確実に行った場合、その未来は現実になる可能性が高くなる。
過去が今の自分を作っているように、今の自分が未来を作るのだとしたら、過去も今も未来もかなりの部分が同時に存在しているのに等しい。
私たちは「過去から未来に向かって直線的に流れるもの」として時間をとらえている。
しかし、これは近代になってから生まれた時間の概念だ。
時計によって計量的、客観的に時間をとらえていなかい時代、時間は「円環的」なものだった。
春になれば花が咲き、夏の暑さを経て、秋に収穫したものを蓄えて冬を過ごす。
また同じように春が来て、夏が訪れ … というように、円環する時間が繰り返されていく。
今年は去年よりも発展する、新しいものにこそ価値があるという感覚は存在しない。
同じ時間が繰り返されるのだから、経験を重ねている人ほど、物事の予想が立つ。
いつ種をまき、いつ刈り入れたらいいかの判断は、若者よりも年寄りの方が正しい。
そのような判断にとくに信頼がおける人は「日知り」(聖)とよばれ尊ばれた。
宇宙、地球といった単位で時間をとらえた時、人の一生などほぼ無に等しい。
そんなちっぽけな存在が、たかだかここ何百年で編み出した「直線時間」という近代的感覚は、それほど絶対的なものではないのかもしれない。
公開中の映画「メッセージ」は、人間のそれとは全く異なる時間感覚を持つ地球外生命体と人類との接触を描いている。
「彼ら」には過去も未来もなく、さまざまな事象が同時に存在する。そんな生命体が用いる言語があるとしたら、どのようなものか。地球人とのコミュニケーションが可能なのか。
たんなる宇宙人との遭遇を描いたSFを越えた哲学的な問いをはらむ作品だ。