新二年生の希望者を対象にしたミニ講習は、今年の東大の問題を読んでみて、これからどんな勉強をすればいいかイメージしてみようという趣旨で行った。
国語の第一問は、内田樹先生の「反知性主義者たちの肖像」という評論の一節。
評論家としては「最も」と言っていいいほど著名な方であり、政治分野についての発言も多いためか、けっこうな反応を目にした。
「今年の東大二次は○○が出た!」という話題は、通常なら予備校の先生、ごく一部の高校教員ぐらいにしか話題にならない。狭い業界でのトピックにすぎない。でも今年はちがった。
といっても、ネット上でそれを知ったということだが。
~ ところが、このすぐ後に、突然「知性は『集合的叡智』として働くのでなければ何の意味もない。単独で存在し得るようなものを私は知性とは呼ばない」という驚くべきドグマが、突然、何の脈略もなく展開される。あたかも「イデオロギーの無謬性」を講義する教室に突然迷い込んでしまったかの様だ。 … 少しでも知性のある読み手なら当惑するばかりだろう。(松本徹三) ~
そうかな。そんなに「当惑」しなかったけどな。あ、おれ知性足りないんだ … 。がーん。
ま、いいか。知性はないけど、生徒さんが東大の問題を解けるように導くことはできる。
それでおまんま食えるのだから、十分だ。
~ 東大入試の現国の問題が話題になっているが、松本さんも指摘するように問題文も設問も意味不明だ。こんな悪文を出題した文学部(たぶん国文科)の教師は、「戦争法反対」のデモに参加しているのだろう。(池田信夫) ~
若い人がよく「意味わかんねーし」とか使う。その用法と似たものを感じる。
未知の情報に接したとき、その意味を考えたけど理解できなかったというより、最初から理解しようとしていない姿勢だ。
情報の発信者によって区別するようだ。ダチの言うことは聞く、先輩の言うことは聞くけど、先コーの言うことなど聞く気はない的なありかた。内田の言うことなど聞くか、と。
そういう姿勢でものごとに接する人を、学はあっても地位はあっても、「知性に欠ける人」とよび、納得されることは多いと思う。





