関係する作品のすべてを見ているわけではないのですが、ジョディ・フォスターの映画には法廷のシーンが多いような気がします。
裁判そのものを題材にした「告発の行方」は当然ですが、それ以外にも「ネル」とか「コンタクト」など、ストーリー上のいざこざを最終的に裁判で決着する場面が、私が見た映画の中には多いような印象があるんです。その中には、わざわざ裁判沙汰にしなくてもストーリーとしては十分成立するんじゃないかと思えるものもあって、しかし法廷で主人公の申し立てが通って勝利すれば、それはそれでカタルシスが満足でき、お話の構成としては成功しているように思えます。何しろ裁判で出た判決ですから誰も文句をつけられない。シロは白でクロは黒と歴然とした結果になり、わかりやすく簡単に納得させられてしまう。
先月始まった「イチケイのカラス」というテレビドラマを楽しく見ています。
型破りな裁判官が主人公で、当初は全面的に悪いと思われた被告人にまつわる隠れた事実がストーリーが進むにつれて浮かび上がり、実は被告人は無実であったり、時には被害者であることが判明したりして立場が逆転し、最終的に法廷で真の勧善懲悪が成立します。
登場人物のうちの誰が善者で誰が悪者か、主人公の捜査の過程を見るうちに大体わかってくるのですが、最後の法廷シーンでそれが決定的なものになる。裁判官が真の悪者の悪行を暴いて判決を言い渡す場面は胸が透(す)くようで、とても気持ちが良い。
この気持ち良さは、どうも法廷シーンが持つ雰囲気に影響されているような気がします。放送回によっては、エピソードの決着について法廷ではない場所で後日談のように語られる回もあるのですが、その場合、さほど感動しないのです。
ストーリーの決着が「法廷において裁判官が申し渡す判決であること」に大きな価値を感じているようで、何だか権威主義的なものに丸め込まれているような気もして我ながらちょっと嫌なのですが、抗えない。
裁判官とは思えない型破りな言動をする人物が裁きをする、というのは有名な時代劇「遠山の金さん」に通じるところがあるように思えます。裁判官という威厳をまとう者が、庶民の側に立った人情味あふれる判決を下す、という設定にすることで法廷シーンが持つ権威主義的な部分の解消を試みているのかもしれません。
ジョディ・フォスターの映画では白黒ハッキリさせて主人公の正当性を強調するために法廷シーンを挿入し、イチケイのカラスではクールに裁くだけの決着を嫌って人情味を含めたお情けの裁きを尊ぶ。
ま、どちらも面白いんですけどね。
実は金さんも大岡越前も見たことがない私です。でもどちらも有名なので「庶民の側に立って裁きをする奉行」という設定であるのは知っております。大岡越前を例に出しても良かったのですが、越前の方は「いかにもお奉行様」という見た目でしょ? 型破り、という意味では金さんの方が合っているように思えました。
イチケイは「第一刑事部」の略称だそうです。
カラスは裁判官の衣装を意味するものではないようです。番組のオープニングに出てくるマスコットも、日本のサッカー代表のマークにも登場する三本足のヤタガラスでした。なんか特別な意味があるのではないかと思われます。