Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

たたかう“知識人”;現在についての問い

2012-03-17 14:43:43 | 日記


いきなり引用をはじめてもいいのだが、現在のぼくの状況から説明したい。

いやそんなに大袈裟なことじゃない。
ぼくは現在、風邪である、昨日医者へ行き風邪薬を飲んで、寝ている。
ここ数日、寝たり起きたりであり、起きれば、パソコンを開き、吉本隆明死去のニュースやそれに関する有名人の“感想”を読む羽目になる。

その間、出たばかりの大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ』と柄谷行人『政治と思想1960-2011』を読み終わった。

さらに昨日も書いたように『フーコー・コレクション4』を読了、現在『フーコー・コレクション5』を読みつつある。

ぼくが“震災原発以後”の状況について書かれた本を読むのは、辺見庸につづき、この大澤と柄谷の本のみであった。

“震災原発以後の状況”について書かれたおびただしい本のなかには、きっと“良い本”があるのだろう。
しかしぼくが、辺見庸、大澤真幸、柄谷行人を読んだのは、それらの人々への“こだわり”があったからである。

あっさり言って、この3冊の本では、ぼくは辺見庸には共感したが、大澤、柄谷には失望した(ああもう一冊、東浩紀の『一般意志2.0』も“震災原発以後”本といえなくはなく、この本への評価も減退している)

そしてこの間、なによりも共感できたのは、フーコーの発言であった。

その“サンプル”を引用したいが、現在、ぼくの“本質直感”能力は減退しており、適切な箇所を“選べる”かに、自信はないのだ。

けれども、どうしても“いま”やらなければならない、このブログの読者のためにではなく、自分自身のために。

以下に引用するのは『フーコー・コレクション5』の3番目にあるフーコーへのB.H.レヴィのインタビューでのフーコーの発言である(“性の王権に抗して”)。

いくつかのフーコーの発言をピップアップ引用するわけだが、順番どおりではなく、まず最後の部分を引用し、その後に、最初から順番に(ぼくにとって重要と思われた部分を)引用したい;


(最後の部分)

★ 私が切望するのは自明性や普遍性を破壊する者としての知識人です。現在の惰性と桎梏のなかで、その弱点、開示、骨組みを標定しそれらを示してみせる知識人。絶えず自らの位置を移動し、現在にあまりにも注意を払っているために明日自分が正確にどこにいて何を考えるかということを知ることのないような知識人。自分を通過点として、革命が果たして労力に値するものかどうかと問う知識人。そうした問い(どのような革命、どのような労力という問い)に答えるためには自らの生を危険に晒すことも辞さないような知識人。このような知識人を、私は切望しています。

★ 「あなたはマルクス主義者ですか」、「もし権力を手に入れたらあなたは何をしますか」、「あなたは何を支持し、どこに帰属しているのですか」、といったような、分類と方針についての問いは、私が示したような問いに比べれば、全く副次的な問いにすぎません。私が示した問いこそが、今日的な問いなのです。




(最初からランダムに)

★ それから、ご存知のとおり、私は、禁止と抑圧的権力について語る憂鬱な歴史家とみなされています。私は、狂気とその監禁、異常とその排除、犯罪とその拘禁というような二項対立によって歴史を語るものであるとされています。しかし、私の問題は常に、そうしたものとは別の項、すなわち真理という項に関するものでした。狂気に対して行使される権力は、精神医学にかかわる真の言説をどのようにして生み出したのか。性現象に関しても同じことです。つまり性に対して行使される権力が関与するものとしての知への意志をとらえ直すこと。私が研究しようとしているのは、禁止事項についての歴史社会学ではなく、真理の生産についての政治史なのです。

★ すでに何年も前に、歴史家の人々は、戦いや王や制度についてばかりでなく、経済についてもその歴史を書くことができるということを発見して得意になっていました。そんな彼らも、感覚や行動や身体についてもその歴史を研究することができるということを彼らのうち最も抜け目ない者たちが示してみせたときは、あっけにとられたものです。西欧の歴史が、真理が生産されその効果を記入するやり方と切り離し得ないものであるということ、このことについても、彼らはそのうち理解することでしょう。
★ 我々は、その大部分が「真理に依拠して」機能するような、そうした社会に生きています。つまり、真理という機能を持ち、そのようなものとみなされることによって特殊な権力を保持することになる、そうした言説を、われわれの社会は生産し流通させている、ということです。真なる言説(それ自体絶えず変化するものとしての真なる言説)の確立という問題は、西欧の根本的な問題のうちの一つを構成しています。「真理」の歴史、真なるものとして受け入れられた言説に固有の権力についての歴史こそ、まさしく研究すべきものなのです。
★ 性現象をしかじかの様式にもとづいて生み出すことで性の貧困という効果を引き起こすポジティブなメカニズムとは、いったいどのようなものなのでしょうか。
いずれにしても、私は、我々の社会において性について語ることを促し、扇動し、強制するような、そうしたメカニズムのすべてについて研究しようと考えています。

★ 後続の巻において、女性や子供や倒錯者についての具体的な研究に取りかかる際に、私は、性の貧困の諸形態と諸条件について分析を試みるつもりでいます。しかし、さしあたって重要なのは、方法を決定することです。果たして性の貧困とは、根本的な禁止事項によって、あるいは「働け、そしてセックスはするな」という経済的状況にかかわる禁制によって、ネガティヴなやり方で説明すべきものなのだろうか。むしろそれは、はるかに複雑でよりポジティヴな手続きの結果なのではあるまいか。問題は、こうした問いに答えることなのです。


★ まさしく、その子供たちに何が起こっているかを見ていただきたい。子供たちの生活は性的なものである、ということが言われます。哺乳瓶の時期から思春期に至るまで、ただ性だけが問題なのだ。読み方を覚えようとする欲望や、漫画への嗜好にしても、その背景には、やはり常に性現象があるのだと。いったい、このようなタイプの言説は、本当に解放へと導くものなのでしょうか。むしろそれは、子供たちを一種の性の孤島に閉じこめるものではないのでしょうか。そして、子供たちにとっては結局、そんなことはどうでもかまわないのだとしたらどうでしょう。性についての法や原則や常識に隷属しないということにこそ、大人でないことの自由があるのだとすれば。もし、事物や人々、身体に対して、多形的な関係がありうるとすれば、まさしくそれこそが、子供というものではないでしょうか。大人たちは、安心のために、この多形性を倒錯と呼び、それを自らの性の退屈な単彩画にしてしまうのです。


★ 子供向けの寓話と同じくらい素朴な語り方をするなら、哲学の問いは長いあいだ、次のようなものであったと言えます。すなわち、「すべてが滅びるこの世界において、移りゆくことのないものとは何であろうか。この移りゆくことのないものに対して、死すべき我々とは、いったい何であろうか。」これに対し、19世紀以来、哲学は、次第に次のような問いに接近しているように思われます。「現在何が起こっているのか。そして、おそらく現在起こっている事柄以外の何物でもなく、それ以上の何物でもない、そうしたものとしての我々は、いったい何であろうか。」哲学の問い、それは、我々自身がそれであるところのこの現在についての問いであり、したがって、今日において哲学の全体は、政治にかかわり、歴史にかかわります。哲学とは、歴史に内在する政治学であり、政治に不可欠な歴史学なのです。

<ミシェル・フーコー『フーコー・コレクション5 性・真理』(ちくま学芸文庫2006)>







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