★ 門があって、そこから一本の長い道が始まる。下ってゆくと、ある女性の家に至るのだが、私はその人を毎晩訪ねていったのだ。彼女が引越してしまったあと、門のアーチ形の入り口は、聴覚を失った耳介(じかい)のように、私のまえに開いていた。
★ 街道を歩いてゆくか、飛行機でそのうえを飛ぶかによって、街道の発揮する力は異なる。同様に、テクストを読むか、それを書き写すかによって、テクストの発揮する力は異なる。空を飛ぶ者に見えるのは、道が風景のなかを進んでゆくさまだけであり、彼の目には、道はまわりの地勢と同じ法則に従って繰り広げられてゆく。道を歩いてゆく者だけが、道の支配力を知る。
★ 恋する男は、恋人の<欠点>だけに、女の気まぐれや弱点だけに愛着を持つのではない。顔の皺やしみ、着古された服や傾いだ歩き方が、あらゆる美よりもはるかに持続的に、そして仮借なく、男をとらえて離さないのだ。それはつとに知られている。そして、理由は何か。感覚というものは頭のなかに巣くうのではなく、私たちは窓や雲や木を、脳のなかにではなく、むしろ私たちがそれを見る場所に感じる、という説があるが、この説が正しいとすれば、私たちは恋人を眺めているときも、自分の外にいることになる。だがこの場所で、苦しいほど緊張し、すっかり心を奪われるのだ。幻惑された感覚は、女の輝きのなかを、鳥の群れのごとく飛び回る。そして鳥たちが、木の葉の茂った隠れ処に保護を求めるように、もろもろの感覚は、恋人の肉体の、陰をなす皺や、優美さに欠けるしぐさや、目立たない欠点のなかに逃げ込み、そこで安全を得て、隠れ処に身を屈める。そして、まさにこの場所、すなわち欠点のあるところ、非難に値するところに、ある女を崇拝する男の、矢のようにすばやい恋情が巣くうのである。このことは、通りすがりの人間には決して察知できない。
<ヴァルター・ベンヤミン“一方通行路”-『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』>