Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

通りすがり;一方通行路

2012-03-31 21:18:18 | 日記


★ 門があって、そこから一本の長い道が始まる。下ってゆくと、ある女性の家に至るのだが、私はその人を毎晩訪ねていったのだ。彼女が引越してしまったあと、門のアーチ形の入り口は、聴覚を失った耳介(じかい)のように、私のまえに開いていた。


★ 街道を歩いてゆくか、飛行機でそのうえを飛ぶかによって、街道の発揮する力は異なる。同様に、テクストを読むか、それを書き写すかによって、テクストの発揮する力は異なる。空を飛ぶ者に見えるのは、道が風景のなかを進んでゆくさまだけであり、彼の目には、道はまわりの地勢と同じ法則に従って繰り広げられてゆく。道を歩いてゆく者だけが、道の支配力を知る。


★ 恋する男は、恋人の<欠点>だけに、女の気まぐれや弱点だけに愛着を持つのではない。顔の皺やしみ、着古された服や傾いだ歩き方が、あらゆる美よりもはるかに持続的に、そして仮借なく、男をとらえて離さないのだ。それはつとに知られている。そして、理由は何か。感覚というものは頭のなかに巣くうのではなく、私たちは窓や雲や木を、脳のなかにではなく、むしろ私たちがそれを見る場所に感じる、という説があるが、この説が正しいとすれば、私たちは恋人を眺めているときも、自分の外にいることになる。だがこの場所で、苦しいほど緊張し、すっかり心を奪われるのだ。幻惑された感覚は、女の輝きのなかを、鳥の群れのごとく飛び回る。そして鳥たちが、木の葉の茂った隠れ処に保護を求めるように、もろもろの感覚は、恋人の肉体の、陰をなす皺や、優美さに欠けるしぐさや、目立たない欠点のなかに逃げ込み、そこで安全を得て、隠れ処に身を屈める。そして、まさにこの場所、すなわち欠点のあるところ、非難に値するところに、ある女を崇拝する男の、矢のようにすばやい恋情が巣くうのである。このことは、通りすがりの人間には決して察知できない。

<ヴァルター・ベンヤミン“一方通行路”-『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』>






AKB48の国歌

2012-03-31 11:44:04 | 日記


ぼくはネットでニュースを見ている。
見出しを見て、知りたいニュースはクリックして中身を読むわけだが、“見出し”を見てもなんのことかわからないニュースが多くなってきた。

たとえば、“AKB48”というのが、ぼくには認知できない。
それから“プロ野球”というのも、もう何十年もぼくの世界には存在していない。
(“高校野球”とか“世界フィギュア”とかは、いちども存在したことがない;笑)
だから巨人-ヤクルト開幕戦で、AKB48が“国歌”を歌っても(歌ったら)、ぼくには、その“国歌”が存在しない。

ぼくは、“旧式”な人間なので(ただし、“旧式”とは“保守的”を意味しない)、やはりそういう自分とか、“そういうひとが増えている(ようにぼくからは見える)世の中”について、不安を感じる。

そしたら、茂木健一郎の今日の連続ツイートが、それに“関与する”話題を取り上げていた(AKB48の話ではないが)

ここで茂木健一郎が言っていることも、半分くらいは同感であるが、半分くらいは同感できない(ネットの位置づけとか)

引用しておく;

☆ もみ(1)あれは昨年の暮れの頃だったか、新聞を読んでいたら、「今年いちばん売れた」としてある本が紹介されていたのだけれども、タイトルも著者名も初見だった。へえ〜と思ったが、未だにどんな本なのか知らない。どうやらミステリーかサスペンスらしいんだけれども。
kenichiromogi 2012/03/31 08:36:51

☆ もみ(2)それで、昨日、ある大手出版社の編集者と打ち合わせしていて、「最近どうですか」と聞いたら、「いいんですよ!」と答えが返ってきた。それで、なんとかという本のタイトルを言って、「売れてます。ドラマにもなりましたから」と言うけれども、そのドラマの題名が初耳である。kenichiromogi 2012/03/31 08:37:53

☆ もみ(3)私が怪訝な顔をしていると、編集者が、ちょっと不満そうに、「今クールで一番視聴率が高かったんですよ」と言ったが、知らないものは知らない。それで、話題は次に行ってしまったが、街を歩いているときに思いだして、ああ、世の中はもうそうなってしまっているんだなと思った。kenichiromogi 2012/03/31 08:39:04

☆ もみ(4)かつては誰もが知っているヒット曲とか、ベストセラーがあったとはよく言われる話である。ところが、100万部とか売れても、もはやある「セグメント」の中のことでしかない。そのセグメントを外れると、誰も知らない。変化をもたらしたのは、インターネットと、グローバル化だろう。kenichiromogi 2012/03/31 08:40:33

☆ もみ(5)ネットの発達によって、自分の志向に合った情報源に手軽に接することができるようになった。その結果、それぞれの小宇宙が発達した。逆に言えば、かつて「マスメディア」が時代の流行を作っていたときは、いかに「全体主義的」だったかということがわかる。
kenichiromogi 2012/03/31 08:41:36

☆ もみ(6)もともと、人間というものはそれぞれ見ている世界が異なる。同じ家族でも、食卓に座る場所によって光景は異なる。マスメディアの寡占がそもそも異常なことだったのであって、人類の文化史から見れば、ごく一時期の、特殊な状況だったということなのだろう。
kenichiromogi 2012/03/31 08:49:27

☆ もみ(7)100万部売れる「ミステリー」や、「今クールで一番視聴率の高いドラマ」だって、それに興味がない人はつきあう必要がない時代になった。逆に、インターネットは世界中の情報をもたらすから、日本のドラマよりもアメリカのドラマやイギリスのコメディに詳しい人が出て来る。kenichiromogi 2012/03/31 08:42:34

☆ もみ(8)もともと、私の周囲ではトレンディ・ドラマに出ている俳優よりも、チューリングやゲーデルの方がよほどメジャーである。以前はそれでもマスメディアに付き合っていたが、困ったことにネットのお蔭で、自分の好きなチューリングやゲーデルの情報をいくらでも深掘りできるようになった。kenichiromogi 2012/03/31 08:43:44

☆ もみ(9)アニメを深掘りする人も、趣味の植物を深掘りする人もいる。そして、その向こうに広がる小宇宙では、同好の士がおいでおいでをしている。比べるとマスメディアの最大公約数は薄味だ。結果として、メジャーだろうがそんなもの知らない、そんな時代になったのはおそらく歓迎すべきなのだろう。
kenichiromogi 2012/03/31 08:45:25

☆ 以上、連続ツイート第550回、「もはやメジャーなんかない、みんなオタクでいいんだよ」でした。一つ付け加えれば、100万部のベストセラーでも、視聴率一位のドラマでも、その愛好自体がもはやオタクだということです。
kenichiromogi 2012/03/31 08:46:47

(以上引用)


上記引用で、ぼくが共感するのは;

《もともと、人間というものはそれぞれ見ている世界が異なる。同じ家族でも、食卓に座る場所によって光景は異なる。マスメディアの寡占がそもそも異常なことだったのであって、》

という部分。


ただし、《もはやメジャーなんかない、みんなオタクでいいんだよ》というのが、この連続ツイートの結論なら、ぼくはそうあっさり言うことはできない、と思った。

たしかに《マスメディアによる寡占が全体主義的である》というのは、ぼくもそう思う。

けれども、ただちに《みんなオタクでいいんだよ》とは、思えないのだ。

やはり、ぼくは、“普遍性”をはげしく希求している。

ぼくが間違っているかどうか、考える必要がある。






*画像はアサヒコム提供(笑)