Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

2012-03-18 01:40:09 | 日記


★ 稔った稲畑の方から風が吹く度に稲の穂の波音が響き、最初、老婆らはその音が、昔、路地の裏山の切れたあたりから広がった田の風景を想い出させると言っていたが、光が色づきはじめ、どうした加減で、まだ四時を廻ったばかりなのに夜のような風景にみえる時、気味が悪いと言い出した。

★ 稲の茂った田の向こうに伊勢の山があり、その山の方からやってくる風の音を、老婆らは何度も何度も耳にしてはじめて、路地の裏山の切れたあたりにあった田が路地の誰のものでもなく、路地の者らをそこに閉じ込めた町の者らの所有で、稲藁を2、3本抜く事はおろか、近道に田の畦を通る事すら禁じられたところだったと思い出したのか、心の底に澱んでいた不安につき動かされるように、冷凍トレーラーもワゴン車もそこに停めて大丈夫か、自分らも空き地にたむろしていて追い出される事ないのか、と言い出した。その言い方もツヨシや田中さんに訊くのでなく、互いに心の中にわき上がった気持を述べあうという様子だった。老婆らには冷凍トレーラーに乗り込む前から、一切が不法で、大丈夫だと安心していられる事などない旅だ、と言い渡していた。

★ 田中さんが手に入れてきたスポーツ新聞の広告欄を丁寧に調べ、伊勢のピンクキャバレーやサロンをさがし、ツヨシが運転台からボストンバッグを取り出し、着替えを出している脇で、老婆らは、まるでわいて出る風そのものに震えて音をたてるというように、「かまんのかいネー」「われら、こんなところにおりくさって、出ていけーと頭の髪(たぶさ)つかんで放られたんや」と何時の事を言っているのか聞く方が混乱する口調で言う。

<中上健次『日輪の翼』(小学館文庫1999)>