Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ドゥルーズ;生成変化

2012-03-05 13:32:17 | 日記


★ 一般に質問は未来(または過去)に向けられる。女性の未来、革命の未来、哲学の未来、等々。だが、その間に、そのような質問で堂々巡りしている間に、ひそかに働く、ほとんど気づかぬほどの種々の生成変化[・・・になること]がある。個人史であれ世界史であれ、人々はあまりに歴史の用語で考えすぎる。生成変化とは地理上のもので、種々の方向、方角、入口と出口のことだ。女性とも、女性の過去や未来とも同一視されぬ女性=生成変化(なること)があり、女性は己の過去と未来、己の歴史からぬけ出すのにそこに入らなければならない。革命の未来とは別ものの、必ずしも闘士とはならぬ革命家=になることがある。哲学史とはまったく無縁の、むしろ哲学史では分類しえぬ人々を経過する哲学者=になることがある。

★ 蘭が蜜蜂のイマージュを形成するかに見える。しかし実際には、蘭の蜜蜂=生成変化(なること)、蜜蜂の蘭=生成変化(なること)があり、そして各々が「何に」なるかは生成変化中の「何か」と同様に変化する以上、二重の捕捉がそこにある。蜜蜂が蘭の生殖器官の一部になり、同時に蘭が蜜蜂にとっての性器になる。

★ ところで、今日のよい読み方とはレコードを聞くように、映画やテレビ番組を見るように、歌を耳にするように本を扱うことだ。本をうやうやしく扱ったり、特別なものとみなすことは前世紀の名残で、決定的に本を葬り去る。難易度や理解力の問題ではまったくない。概念とはまったく音や色や映像のようなもので、強度があなた方に合っているかどうか、通じるかどうかだ。ポップ哲学だ。理解すべきもの、解釈すべきものは何もない。

★ 文体とは、自らの言語のなかでどもるようになること。難しい。なぜなら、そのようにどもる必要がなければならないのだから。発語(パロール)でどもるのではない、言語活動(ランガージュ)そのものによるどもりなのだ。自国語そのものの中で異邦人のごとくであること。逃走の線をひくこと。

★ 自らの言語の内に少数者の言語をもつべきなのだ。自国語そのものから少数者の用法をつくり出さねばならない。(・・・)自国語そのものの中で、外国人のように話すことだ。

★ 「美しい書物は一種の外国語で書かれている・・・・・・」(プルースト)これが文体の定義だ。これはまた生成変化の問題だ。人々はつねに多数者の未来を想う(私が偉くなったら、権力をもった時には・・・・・・)。だが、問題は少数者=になることにかかわる。子供、狂人、女性、動物、どもり、あるいは外国人、彼らのふりをするのではない。彼らをつくり出すのでも模倣するのでもない。新たな力、新たな武器を創出するために、それらすべてになることである。

<ジル・ドゥルーズ『ドゥルーズの思想』(大修館書店1980) 田村毅訳)>




* このドゥルーズの本の原著は、“Dialogues”1977である。
引用したのは、この本の最初の田村毅による翻訳(1980年)
昨年12月にこの本の新訳が河出文庫として刊行された(『ディアローグ』江川隆男+増田靖彦訳)ので、ぼくは購入した
新訳は“こなれている”ように思えるが、ぼくには、上記の“文体”の方が快適だった(新訳が“わるい”とは言っていない)




ちなみに引用した最後の部分の新訳を引用しておこう;

★「美しい本は一種の外国語で書かれている・・・」。これが文体の定義である。そこにはまた、生成の問いもある。人々はマジョリティが抱く未来のことをつねに考えている(私が偉くなった暁には、私が権力を握った暁には・・・)。けれども、ここでの問題はマイノリティへの生成の問題なのだ。つまり、子供、狂人、女性、動物、吃り、外国人のふりをすることでもなければ、彼らをつくり出すことでも模倣することでもなく、そうしたものすべてを生成させ、新しい力を創出し、新しい武器を発明することが問題なのである。





さらに引用を続けてみよう、
今度は旧訳と新訳を並べてみる;

(旧訳)
★ 人生についても同じだ。人生にも、ある種の不器用さ、健康の不確かさ、虚弱体質、あるひとの魅力である生き方のどもりがある。文体が書くことの源泉であるように、魅力は生きることの源泉だ。人生とはあなた方の歴史ではない。魅力のない人々に人生はなく、死者も同然だ。ただし魅力とは決して個人そのものではない。それは個々人を、ある組み合わせが抽き出されるのに十分な数の組合わせ、多くの一回限りの偶然として把握させるものなのである。

(新訳)
★ 生にとっても事態は同じようなものである。生には一種の不器用さ、健康のはかなさ、虚弱な体質、ある人の魅力である生きていくための吃りがある。文体が書くことの源泉であるのと同じように、魅力は生きることの源泉だ。生とはあなたたちの歴史のことではない。魅力のない人たちに生はない。そうした人たちは死んでいるようなものだ。むろん魅力だけが人格となるのではまったくない。魅力とは、一人一人の人格をその人数と同じだけの組み合わせとして把握させるものであり、そのような組み合わせを引き出した各人における唯一のチャンスを把握させるものである。



(旧訳)
★ 魅力、文体とは不適当な語で、他の語を見つけて言い換えるべきだろう。魅力が人生に非個人的な、個々人を超えた力強さを与えると同時に、文体が書くことに書かれたものをはみ出る外的な目的を与える。それは同じことで、まさに、人生が個人的なものではないからこそ、書くことはそれ自体に目的があるわけではないのだ。書くことの唯一の目的は、書くことによって抽き出されるさまざまな組合せを通して、人生にある。まさしく、人生が絶えず分断され、貶められ、個人化され、腐敗させられ、そして書くことが自己目的化するところの「神経症」の反対だ。

(新訳)
★ 魅力と文体というのがよくない言葉であるとしたら、別の言葉を見つけ、それに置き換えなければならないだろう。魅力が生に非人称的な、個人に優越する力能を与えると同時に、文体はエクリチュールに外部の、書かれるものを逸脱した目的を与える。両者は同じことを言っている。つまり、エクリチュールは自分自身のうちに自らの目的をもっていないのだが、まさにそれは生が個人的なものではないからである。エクリチュールの唯一の目的は生にあり、この生はエクリチュールによって引き出される諸々の組み合わせに貫かれている。それは「神経症」の反対である。神経症においては、まさしく、生が絶えず毀損され、貶められ、人称化され、侮辱され、そしてエクリチュールが絶えず自分自身を目的とさせられている。