Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
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1984年;最後のフーコー

2012-03-20 11:36:37 | 日記


* 『ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ』(筑摩書房1998)の最初にある「年譜」の最後の年1984年を引用(一部省略、なおこの年譜はちくま学芸文庫『フーコー・ガイドブック』にも収録されている);


★1月 抗生物質治療で活力を回復する。フーコーは、モーリス・パンゲに――「僕はエイズに罹ったと思ったのだが、懸命の治療で立ち直った」と書簡で書く。

★2月 再び消耗していたが、パレージアについて、コレージュ・ド・フランスでの講義を再開。3月末まで、『性の歴史』第2巻のゲラを校正。

★ 3月 (略)タルニエ病院でフーコーは定期的に診断をうける。医師たちは、彼の唯一の問いは――「あとどれだけ時間が残されているか?」だったと感じた。彼の方から病状の診断を求めもせず受けることもなかった。1978年、フィリップ・アリエスの死に関して、フーコーは、「患者がかれ自身の死との密かな関係の主人であり続けるために受け入れる、知と沈黙との戯れ」について語っていた。

★ 10日 『性の歴史』のゲラを校正するかたわら、クロード・モーリヤックとともに、援助を求めにやってきた、警察により住居から追い出されたマリ人およびセネガル人の労働者代表に会う。彼らのために何通もの手紙を書く。

★ 4月 カフカの日記を読み直し、『肉の告白』の草稿執筆を開始。パレージアについての最後の講義のさい、フーコーは自分の分析に施されるべき変更があると述べるが、ジャック・ラグランジュは、「もう遅すぎる」と呟くのを耳にする。

★ 6日、自宅で、詩人ブライオン・ジェイシンを伴って訪れたウイリアム・バロウズを迎えてパーティー。これが最後のパーティーとなる。

★ 5月 『性の歴史』第2巻および第3巻の刊行の機会に、「マガジン・リテレール」誌はフーコー特集号を刊行。フーコーは、「知識人の沈黙」について発言。

★ 14日、『快楽の活用』刊行。「ラ・ルヴェ・ド・ラ・メタフィジック・エ・ド・モラル」誌のジョルジュ・カンギレム特集号に論文を送る。オリジナルのテクストを約束していたが、1978年に『正常性と病態性』の英語版のために書いたテクストを修正することしかできなかった――「このテクストにこれ以上手を入れられません。文体上の不手際があれば、遠慮なく修正して下さい」(出版社への手紙)

★ 29日、自宅で、ジル・ドゥルーズに近い若い哲学者アンドレ・スカラのインタビューに応じる。フーコーは、非常に消耗、自分にとってハイデガーの読解がもつ重要性を初めて語る。このインタビューに自ら手を入れることができず、ダニエル・ドフェールに最終的な体裁を整えることを任す。

★ 6月3日、フーコーは発作を起こし、弟のドゥニの手配で自宅近くサン・ミシェル病院に入院。9日、サルペトリエールの、シャルコーが仕事をした旧い建物を見おろす神経科に移される。

★ 10日、集中治療室に入る。

★ 20日、小康を保つ間に、刷り上った『性の歴史』第3巻『自己への配慮』を受け取る。

★ 25日、13時15分、ミシェル・フーコー死去。

★ 29日、サルペトリエールでの短い別れの儀式のあと、遺体はヴァンドゥーヴル・デュ・ポワトゥーに運ばれ、近親者と村人の見守るなか埋葬される。
根強い伝説とは反対に、また死因を公表しないというフランスの医学的慣行にも反して、遺族の要請で、臨床的にエイズを記述するコミュニケがカステーニュ教授とソーロン博士により発表された――「ミシェル・フーコー氏は、1984年6月9日、悪性の敗血症を引き起こす神経学的兆候に関する必要な追加検査のために入院した。検査は、脳の化膿巣の存在を突き止めた。[・・・・・・]病状の急激な悪化が有効な治療のあらゆる希望を奪い、6月25日13時15分死に至った。」

★ ミシェル・フーコーは、1982年9月、ポーランドに出発する前に、「事故の場合に」開封すべき遺書を書き残していた。その遺書の三箇所の指示のうち二つには、「不具よりは死を」、そして、「死後出版は認めず」と記されている。

<『ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ』(筑摩書房1998)>