★ 人は、発話行為において、常になにごとかを表現し、何者かとして自分を定義している。だが、最も重要なことは、自分自身を十全に定義するようなことを表現しようとしても、それは必ず失敗する、ということである。失敗において表現されることにこそ、むしろ、主体の真実がある。たとえば、人は愛の告白において、常に口ごもる。告白において、人は言葉が足りなかったり、逆に饒舌すぎたり、あるいは不適切な語彙を用いたりしてしまうものだ。本気のラブレターの文体は、常にどこか乱れている。相手に対して、愛をうまく伝えられないということ、そのことこそが、愛の真実の証拠である。実際、簡潔にして要を得ていて、いかなる乱れもない「愛の告白」を受けたと想像してみればよい。
★ 言語行為において自分自身を十全に表現し尽くすことは、第三者の審級によって承認された客観的・社会的な場所に自分を位置づけること、そのような場所を引き受け、そこに安住することを含意する。言い換えれば、表現の失敗は、そのような客観的な場所への違和、あるいはより積極的にそうした場所への拒否を示している。
★ このことを考慮すると、前項で述べた、古典的なテクストを「真理を知っている(はずの)第三者の審級」として動員する方法にも、問題があることがわかる。第三者の審級に帰属する真理に到達したと思ったところで、探究は終わってしまう。そのように納得したところで、彼は、自分を表現し尽くした、自分が求めていた真理に到達したという幻想を獲得することになる。しかし、そうして確立された「真理」、巧みに整序されている「真理」は、失敗においてしか示されない主体の真実を、常に裏切っている。
★ 権威あるテクストを通じて「真理に到達した」と思いなすことは、主体が、社会システムのしかるべき場所に――たとえば正規労働者としての地位に、あるいは誇るべき民族の一員という身分に――安住の地を見出し、そこにおいて自分のアイデンティティの本質が十全に表現され、承認され尽くしている、と感じている状況と類比的である。
★ ソクラテス(という第三者の審級)の視点を媒介にして、人はまず、自分もまた真理を知らなかったといういうことを、したがって自分が今まで正しい自己表現であると見なしていたものが誤りであることを見出す。ソクラテスの問答法は、それゆえ、人に、安定的なアイデンティティを与えるものではなく、逆にそれを壊すものである。ソクラテスから、挑発的に問われた者は、対話を通じてやがて、自分がそれまでに引き受けていた社会的な地位や役割や身分に疑問を付すようになる。
★ 真理を知らない指導者と対話したり、問答したりすることに、何の価値があるのか、と訝る者もいるだろう。しかし、ソクラテスは、それでも十分な効果があることの、歴史的な実例である。重要なのは「真理」の方ではなく、人に問い、考えることを誘発する他者の現前の方だからである。
<大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ』(岩波新書2012)>