Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ソクラテス

2012-03-10 23:18:40 | 日記


★ 人は、発話行為において、常になにごとかを表現し、何者かとして自分を定義している。だが、最も重要なことは、自分自身を十全に定義するようなことを表現しようとしても、それは必ず失敗する、ということである。失敗において表現されることにこそ、むしろ、主体の真実がある。たとえば、人は愛の告白において、常に口ごもる。告白において、人は言葉が足りなかったり、逆に饒舌すぎたり、あるいは不適切な語彙を用いたりしてしまうものだ。本気のラブレターの文体は、常にどこか乱れている。相手に対して、愛をうまく伝えられないということ、そのことこそが、愛の真実の証拠である。実際、簡潔にして要を得ていて、いかなる乱れもない「愛の告白」を受けたと想像してみればよい。

★ 言語行為において自分自身を十全に表現し尽くすことは、第三者の審級によって承認された客観的・社会的な場所に自分を位置づけること、そのような場所を引き受け、そこに安住することを含意する。言い換えれば、表現の失敗は、そのような客観的な場所への違和、あるいはより積極的にそうした場所への拒否を示している。

★ このことを考慮すると、前項で述べた、古典的なテクストを「真理を知っている(はずの)第三者の審級」として動員する方法にも、問題があることがわかる。第三者の審級に帰属する真理に到達したと思ったところで、探究は終わってしまう。そのように納得したところで、彼は、自分を表現し尽くした、自分が求めていた真理に到達したという幻想を獲得することになる。しかし、そうして確立された「真理」、巧みに整序されている「真理」は、失敗においてしか示されない主体の真実を、常に裏切っている。

★ 権威あるテクストを通じて「真理に到達した」と思いなすことは、主体が、社会システムのしかるべき場所に――たとえば正規労働者としての地位に、あるいは誇るべき民族の一員という身分に――安住の地を見出し、そこにおいて自分のアイデンティティの本質が十全に表現され、承認され尽くしている、と感じている状況と類比的である。

★ ソクラテス(という第三者の審級)の視点を媒介にして、人はまず、自分もまた真理を知らなかったといういうことを、したがって自分が今まで正しい自己表現であると見なしていたものが誤りであることを見出す。ソクラテスの問答法は、それゆえ、人に、安定的なアイデンティティを与えるものではなく、逆にそれを壊すものである。ソクラテスから、挑発的に問われた者は、対話を通じてやがて、自分がそれまでに引き受けていた社会的な地位や役割や身分に疑問を付すようになる。

★ 真理を知らない指導者と対話したり、問答したりすることに、何の価値があるのか、と訝る者もいるだろう。しかし、ソクラテスは、それでも十分な効果があることの、歴史的な実例である。重要なのは「真理」の方ではなく、人に問い、考えることを誘発する他者の現前の方だからである。

<大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ』(岩波新書2012)>





このひとはなつかしい

2012-03-10 13:06:02 | 日記


このひとのことは、まったく忘れていた。

このひとが活躍していた当時も、ぼくはこのひとについてくわしかったわけじゃない。

でも、ひさしぶりにこのひとを見て、忘れられた時代が、かすかによみがえった。

あるいは、自分にとって、忘れられた時があったことが、にぶい痛みのように感じられる。

それにしても、いま、“そういう顔”、つまりテレビの中の顔として“なつかしい”のが、このひとや、飯島愛であったりするとき、ぼくの“趣味”はいかなるものであろうか!

たぶん現在のテレビの顔を、このように回想することは、もう、できない。

ご冥福を祈る。







LIVE ADVENTURES

2012-03-10 12:27:45 | 日記


むかしむかし、ぼくの家にレコード(LP)が数枚しかなかったころ、“The Live Adventures of Mike Bloomfield and Al Kooper”を毎日何回も聴いていた。

このアルバムは当時の“ニュー・ミュージック・マガジン”での中村とうようの“ロックもここまできたかと、胸が熱くなる”というレコード評を読んで買ったと思う(とうようさんは昨年自殺と見られる死を死んだ)

そのころ卒論を書いていて、さっぱりわからないサルトルの『想像力の問題』をひたすら要約していた。

“アナロゴン”、“アナロゴン”という呪文で、当時暮らしていた母と笑った。

いまこの同じ曲をCDで聴く。
もちろん、“音楽”は、まったく変わらないが、(たとえば)、母はもういない。

このアルバムは、“フィルモア”でのライヴであり、ブルースとS&G、ザ・バンド、トラフィックなどの曲のカヴァーからなる(マイクとアルのオリジナルもある)

ここには、“Dear Mister Fantasy”の歌詞を引用、この曲の途中アル・クパーのオルガンによって出現するのは”ヘイ・ジュード“である;


Dear Mister Fantasy play us a tune
Something to make us all happy
Do anything take us out of this gloom
Sing a song, play guitar
Make it snappy







賭け;理念;スタイル

2012-03-10 09:39:31 | 日記


BLOGOS掲載の東浩紀インタビューの最後の部分を引用します;


<若者が悲惨な現状を全面肯定する社会は“末期的”>

賭けに出なければ、どうにもならないところに来ているということでしょうか。

東氏:そうでしょうね。ただ日本の場合、本当に民意を確認してみたら、「賭けに出ない」という選択になるような気もします。今の日本人は過剰に自信喪失している状態ですから。

例えて言えばこんな感じですよね。お父さんの会社が潰れそうだ。家族がいる。この時に、会社を整理し、お父さんが再就職をして、年収がいままでの半分あるいは3分の一になるけれど、家族はギリギリやっていけるという状態を選ぶのか。それとも、借金して賭けに出て、もう一度金持ち一家としてやっていくのか。

家族に話を聞いてみると「いいよ、きついよー」「お父さんが家にいればいいよー」という風になって、「まぁいいか」と。そういう選択も合理的だし、そうなる可能性は高いと思います。

3.11の影響もあって、日本人の自信喪失が深くなっている。変な言い方ですが、最後の最後は人々の気持ちの問題だと思うんですよね。いくら「こうしなければ経済成長は起きない」「こうしなければ日本は沈むんだ」と理屈で言っていても、最後は気持ちで決まる部分が大きいと思う。今の日本人はとにかくやる気がないわけです。

この点では、日本人にやる気をもう一度取り戻させる政治家が欲しいですね。テンション高くないときついですよ。全体的に鬱というか、アゲアゲ感がない。バブルのときは傷も大きかったですけど、ギラギラしてましたよ、みんな。

―昨年は古市憲寿さんの「絶望の国の幸福な若者たち」という本も流行しました。

東氏:古市さんの本がいいとか悪いとかではなくて、常識的に考えて、当の若者から「俺たち若者は貧しいけれど、これでいいんだ」という議論が出てくる国というのは、結構末期的だと思います。

今から5年ぐらい前までは「ロスジェネ」とかいって、いちおう若者は怒っていることになっていた。いま思えばじつに「健全」です。それが3.11以降、急速に雰囲気が変わってきて、「これでいいのだ」みたいな現状肯定になってきている。これは国として末期的だと思います。「僕たちは縮小経済の中で、細々と、でもちょびっと幸せに生き抜いていくんです」と言われてもね。

―「緩やかな死」を選択する若者が出てきているということですか

東氏:ちょっときついですが、そうも言えるでしょうね。これは明らかにまずい。でもどう変えたらいいかさっぱりわからないんですよ。橋下さんは、この前の朝生では「そんなんじゃダメだろ、頑張れよ」みたいな感じでやっていた。でもそれでは決してついてこない人たちがいる。こりゃ大変です。

僕は、こういうときは、やはり思想が必要だと思います。日本では、経済・ビジネス系の人たちが、人文系の人間を軽蔑しきっている。その理由もわからなくはないですが、ただ、理念は危機のときこそ必要なんですよ。金があるときには、理念は必要ない。だから人間は理念なんかで動かないという前提が強くなる。ある時期の日本はそうだった。そしてその名残がいまも続いている。でも、世界全体で見たら、まだまだ理念で動いている人はたくさんいるわけです。例えば、宗教というのも理念ですし。アメリカだって、民主主義と自由というある種の理念で戦争まで起こし迷走している。

国力が低迷しているいまこそ、理念というものの現実的な力を日本人は少し考えなおすべきだと思います。理念がなければ人は元気になれない。また人を救うこともできない。

これは短期的利益にも繋がる話です。例えば、すごく卑近な例で言うと、「クールジャパン」みたいな話も理念がないと世界に届かない、「可愛いいものが多いです」とプレゼンしても、一瞬消費されて終わるだけです。それをまとめあげる、新しい国のイメージであったり、ライフスタイルもセットになった新しい「何か」、現代日本の思想みたいな確固たる物が中核にないと、一過性のビジネスに終わってしまう。

戦前の日本は、日本人が世界に出て行くことに対して、一種の使命を感じていたわけですよね。東洋で初めて近代化した国で、日本がアジアを救うんだ、みたいな。それ自体は非常に迷惑な思想だったわけですが、何かの使命というか、日本とはこういう国でこういうことをすべきだという筋があること、それそのものは否定するべきことではない。ところが、戦後のこの国にはそういうものがまったくないわけです。いきあたりばったりでとりあえず、「車が売れているからいいや」「よし次はクールジャパンだ」みたいなことばっかりやっている。

―「こういう国であるべきだ」というヴィジョンが必要だということでしょうか。

東氏:国内でも、「こういう国であるべきだ」という議論が死に絶えていて、これから50年後、100年後、日本がどういう国になるのか、「日本ってそもそもなんだろう」という議論がまったくない。常に金の計算しかしていない。それはよくない。何をするにも「財源が!」みたいな話ばかりです。そこが日本の今一番さびしいところ。まず目的がなければならない。目的の後に財源の話をするべきです。

シンガポールに負けないとか中国に負けないとか、「負けない」ということしかなくなっている。確固たる日本の、「我々はこういうスタイルなんだ」というものがあるべきだと思います。「日本とは何か」という議論こそ、今もっとすべきだと考えています。例によって抽象的ですけどね。