ネットで立教大学総長の大学院学位授与式での発言を読むことができた。
ぼくは立教大学になんの係わりもないが、共感するので引用する;
<卒業生の皆さんへ(2011年度大学院学位授与式)> 2012年3月24日 立教大学総長 吉岡 知哉
立教大学はこの春、375名に修士号、16名に博士号、55名に法務博士号を授与いたします。
学位を取得された皆さん、おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。
昨年3月11日に発生した東日本大震災から、1年と2週間が経とうとしています。東日本大震災は、巨大地震と津波、それに続く原発事故によって、人類がこれまで経験したことのない複合的な災害になってしまいました。
地震と津波による広範囲の災害によって、行方不明者も含め2万人近くの人々が犠牲になりました。さらに、福島第一原子力発電所の爆発事故によって、生きていくための基本的な要素が汚染されました。津波によって破壊された地域の人々だけでなく、高濃度の放射能によって汚染された地区の住民もまた、あたかもディアスポラ(離散して他所に住むこと)のように、住み慣れた土地を追われることになったのです。また、拡散した放射性物質のために、復興自体が阻害されていることもご存知の通りです。
大震災によって、多くの人々が、生活の基盤を崩され、日常そのものを喪失しました。現在でも避難を強いられている人々が30万人以上いると言われます。
東日本大震災が崩したのは、日常世界の物質的基盤だけではありません。深刻なのは、水や食料から社会制度まで、日常世界を構成しているさまざまな要素に対する「信用」が失われてしまったことです。
今回の事故では、原子力発電所の安全性の神話が崩れただけでなく、原子力工学や放射線医学など、現代科学の最先端領域の「専門家」たちの事故後の発言が事態の混乱を深めるばかりであったのは、記憶に新しいところです。また、私たちは、既存の政治機構が機能不全を起こし、政治家の言動やマスメディアの報道が、事態をますます悪化させているのを目の当たりにしています。
高度な研究を行っている専門家や、著名な大学の出身者である政治家への不信が広がる中で、大学という研究・教育機関への信頼が失墜していったのは不思議ではありません。いま私たちは、大学の存在根拠自体が問われていることに自覚的であらねばならないのです。
では、大学の存在根拠とはなにか。
一言で言えばそれは、「考えること」ではないかと思います。
大学とは考えるところである。もう少し丁寧に言うと、人間社会が大学の存在を認めてきたのは、大学が物事を徹底的に考えるところであるからだと思うのです。だからこそ、大学での学びについて、単なる知識の獲得ではなく、考え方、思考法を身につけることが大切だ、と言われ続けてきたのでしょう。
現実の社会は、歴史や伝統、あるいはそのときどきの必要や利益によって組み立てられています。日常を生きていく時に、日常世界の諸要素や社会の構造について、各自が深く考えることはありません。考えなくても十分生きていくことができるからです。あるいは、日常性というものをその根拠にまで立ち戻って考えてしまうと、日常が日常ではなくなってしまうからだ、と言ったほうがよいかもしれません。
しかし、マックス・ウェーバーが指摘したように、社会的な諸制度は次第に硬直化し自己目的化していきます。人間社会が健全に機能し存続するためには、既存の価値や疑われることのない諸前提を根本から考え直し、社会を再度価値づけし直す機会を持つ必要があります。
大学は、そのために人間社会が自らの中に埋め込んだ、自らとは異質な制度だと言うことができるのではないでしょうか。大学はあらゆる前提を疑い、知力の及ぶ限り考える、ということにおいて、人間社会からその存在を認知されてきたのです。
既存の価値や思考方法自体を疑い、それを変え、時には壊していくことが「考える」ということであるならば、考えるためには既存の価値や思考方法に拘束されていてはならない。つまり、大学が自由であり得たのは、「考える」という営みのためには自由がなければならないことをだれもが認めていたからに他ならない。大学の自由とは「考える自由」のことなのです。
言葉を換えると、大学は社会から「考える」という人間の営みを「信託」されているということになると思います。
ところが、東日本大震災とその後の原発事故は、大学がそのような「考える」という本来の役割を果たしていないし、これまでも果たしてこなかったことを白日のもとに明らかにしてしまった。少なくとも多くの人々の目にそのように見えたのに違いありません。大学への信頼が崩れたのはそのためではないでしょうか。
しかしさらに考えてみると、大学への不信はもっと以前から存在していたのではないかと思われます。ある時期から、もはや大学には「考える」という役割が期待されなくなったのではないか。
社会が大学に求めるものが、「考える」ことよりもすぐに役立つスキルや技術に特化してきたことはそれを示しているのではないでしょうか。大学について語る場合の語彙も、「人材」、「質保証」、「PDCAサイクル」など、もっぱら社会工学的な概念に変わってきています。
近年、大学の危機が論じられることが多くなりましたが、その際問題になるのは、「グローバル化」と「ユニバーサル化」です。しかし、人間社会が大学に、考える場所であることを期待しなくなっているのであれば、そのことのほうがずっと深刻な危機ではないでしょうか。
また、このような変化の背景に、そもそも「考える」ことの社会的意味を否定するような気分が醸成されてはいないか、という点にも注意しなければなりません。反知性主義が力を得るための条件は東日本大震災以後いっそう強まってきていると思われるからです。
立教大学は創設以来リベラルアーツを重視してきました。リベラルアーツはここで述べてきた意味での「考える」技法を習得するための訓練体系です。
そのような伝統をもつ立教大学の大学院で学んだ皆さんは、「徹底的に考える」経験を積み重ねた結果、本日の学位授与式に臨んでいるのです。
さて、これまで述べてきたことからもお分かりのように、「考える」という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為です。
皆さんの中には、これから社会に出ていく人も、大学院生として後期課程に進む人も、また、大学や研究所で研究者としての歩みを続ける人もおられることでしょう。社会人として働きながら本学に通い、これから次のステージを目指している人もたくさんいるに違いありません。
皆さんがどのような途に進まれるにしても、ひとつ確実なことがあります。
それは皆さんが、「徹底的に考える」という営為において、自分が社会的な「異物」であることを選び取った存在だということです。
どうか、「徹底的に考える」という営みをこれからも続けてください。そして、同時代との齟齬を大切にしてください。
おめでとうございます。
(以上引用)
<感想>
この発言は、“震災・原発事故”以後で、ぼくが読み得たいちばん明晰な発言だと感じられた。
“明晰”であるとは、この発言の普遍性のレベルにかかわる。
“普遍性”とは、この発言が“大学生”とか、“若者”にのみ発せられていない、という意味である。
こういう発言に対しては、あらゆる年代、あらゆる“社会的な位置”に生きているすべての人々が(ぼく自身を含め)襟を正すべきである。
それは、“知性”の普遍性にかかわる。
いったい何を“知性”と呼ぶかは、明瞭であろうか?
この“知性”への疑いこそ、ぼくらが生きることを駆動する力なのだ。
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