Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

中上建次

2010-10-26 00:20:37 | 日記


★ 明け方になって急に家の裏口から夏芙蓉の甘いにおいが入り込んで来たので息苦しく、まるで花のにおいに息をとめられるように思ってオリュウノオバは眼をさまし、仏壇の横にしつらえた台に乗せた夫の礼如さんの額に入った写真が微かに白く闇の中に浮きあがっているのをみて、尊い仏様のような人だった礼如さんと夫婦だった事が有り得ない幻だったような気がした。体をよこたえたままその礼如さんの写真を見て手を組んでオリュウノオバは「おおきに、有難うございます」と声にならない声でつぶやき、あらためて家に入ってくる夏芙蓉のにおいをかぎ、自分にも夏芙蓉のような白粉のにおいを立てていた若い時分があったのだと思って一人微笑んだ。

★ 明けてくるとまるで瑠璃を張るような声で裏の雑木の茂みで鳥が鳴く。それが誰から耳にしたのか忘れたが昔から路地の山に夏時に咲く夏芙蓉の花の蜜を吸いに来る金色の体の小さな鳥の声だと教えられ、オリュウノオバは年を取ってなお路地の山の脇に住みつづけられる自分が誰よりも幸せ者だと思うのだった。夏芙蓉は暮れ時に花を開きはじめて日が昇る頃一夜だけの命を終えてしぼむので金色の小鳥が蜜を吸いに来た鳴き声を耳にするたびに、幻のようにかき消えた夜をおしむのか、明るい日の昼を喜ぶのか問うてもみたい気がした。

★ オリュウノオバの耳にその金色の小鳥の鳴き声は、半蔵が飼っていた天鼓という名の鶯の鳴き声のようにも響くのだった。半蔵が大事に育てていた天鼓を、年の寄りすぎで体のどこが悪いと言うのではないのに寝たきりになってしまったオリュウノオバに聴かせてやるというように、毎年の夏時に裏の山の茂みに放って声を聞かせてくれる。

<中上建次“半蔵の鳥”-『千年の愉楽』(小学館文庫・中上建次選集6:1999)>




★ 「有難うござりましたあ、有難く存じましたあ」女は言い続けた。彼の首筋に唇を這わせた。わきの下に顔をつけた。彼の汗の臭い、わきがの臭いをかいでいた。体が火照っているのがわかった。彼は自分のわきの下に唇をつけ、鼻をつけているのがいったいだれなのかわからないまま、独身時代や結婚したての頃、女と寝ようとする時、自分のわきの下の汗腺から分泌されるそのにおいが女に不快感を与えるのを恐れ、何度も何度も丁寧に石鹸をつけて洗ったことを思い出し、そこを今日、きれいに洗っただろうか、とぼんやり思い、羞ずかしくなった。そして、自分の中から一頭の獣のにおいのする雄があらわれてくるのを感じた。

<中上建次“欣求”-『化粧』(講談社学芸文庫1993)>





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