Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

鏡;自画像

2010-10-28 17:44:42 | 日記


★ こうした「見る」ことと「見られる」ことの表裏性を見事に表現しているのが、まさしく画家たちの描く「自画像」というものであるだろう。

★ 自画像とは、描いている者がそのまま描かれる者になり、見るものが見られるものになるという不思議な転換装置である。この転換が当の描く者にどのような変化をもたらし、それが再び、描かれたものをどう変えていくのか。画家はこの循環にこそ幻惑されるのだとメルロ=ポンティは考えた。キャンヴァスに向かって絵筆を走らせる画家は、軽やかな自由の主体である。だが、そこに描き出される自分自身は、例えば、年老いて生気を失った、みすぼらしい肉塊に過ぎない。主体は突如として客体に転じ、精神は物質に変わる。内部から感じられていた自己は、外部から見られた自己となり、親密な私は疎外された私へと転落する。この外部から見られた自己は、また、他人から見られた私でもあるだろう。

★ とはいえ、私から見られた私と、他人から見られた私とは、同じなのか違うのか。あるいは、疎外された私と他人とはどこが異なっているのだろうか。いや、それよりもまず、他人から見られた私などというものが、一体どのようにして私には分かるのか。他人が見ることと私が見ることの等価性は、どこで保証されているのか。そもそも他人は、私がこの目に映るがままに描こうとしている諸物体と、はたしてどこが違っているのだろうか・・・と、最初の転換を描こうとするだけでも、彼の思いは千々に乱れゆく。

★ この種の迷宮は、ミシェル・フーコーの指摘を待つまでもなく、あのベラスケスの大作『ラス・メニーナス』の内に集大成されている。ベラスケスはまず、絵の中央にマルガリータ王女を配す。(略)さらに彼女を、侍女や道化が取り囲む。だが、その傍らに、彼はふと、絵筆を走らせる自分自身の姿を描き込んでもいるのである。製作中の画布は背面しか見えていない。描かれたベラスケスはそこに何を描こうとしているのか。奇妙なことに画家の目は、こちらを見ている。え、では、彼は、今この絵を鑑賞している私を書こうとでもいうのだろうか。まさか、そんなことがあろうはずはない。だとすれば、この画布に描かれた画家は、今私のいる場所で描いていた自分自身を、描く画家として、描き返そうとしているのだろうか。おもしろい着想ではある。が、しかし、正統な絵解きからすれば、彼が凝視めているのは、スペイン国王フェリペ4世と王妃のマリーナ。それが証拠に、この二人の肖像は、画面中央の鏡の中に映し出されているのである。

★ 見るものと見られるものとの相互転換、見えるものと見えないものの相互転換、私と他者との相互転換、そして転換そのものを可能にする相互の表裏性、これら全ては自画像のヴァリアントであるとともに、畢竟、『ラス・メニーナス』の中心に鎮座する鏡の作用に象徴されるものとなるだろう。そう、反射=反転=反省(レフレクシオン)の不思議、実はそれこそが、この絵画の主題となっていたのである。

★ 鏡は、かつて「幼児の対人関係」においては、幼児が癒合的社会性を乗り越え、自己の視像に「同一視」を行いながら、「自我」から「超自我」へと移行する契機として捉えられていた。それが、ここ『眼と精神』では、さらに「見る自己」と「見られる自己」との表裏性、一般的な主客の表裏性、自他の表裏性を象徴するものとなっている。

★ 結局、「幼児の対人関係」と『眼と精神』とは、「発達心理学」と「絵画論」という対象も観点も論述の位相もまるで異なるものを扱っているように見えながら、その実、思いがけずも近くにあって、やがて二つながらに『見えるものと見えないもの』における新たな存在論の展開契機となっていくのである。

<加賀野井秀一『メルロ=ポンティ 触発する思想』>




最新の画像もっと見る

コメントを投稿