恒例の“内田樹ブログ”に対する感想である(笑)
すなわち内田教授は、“ノルウェイの森”という映画をご覧になった感想を、<映画「ノルウェイの森」を見ました>というブログに書いている。
ぼくはこの映画を見ていないし、見たいとも思わない、が、原作は読んでいる。
まず内田氏は、原作のある映画(映画化)について、《「忠実度においてすぐれた点」と「裏切り度においてすぐれた点」の両方についてレポートしたいと思います。》とおっしゃる。
しかも、《僕はあらゆる映画評において「できるだけいいところを探してほめる」ことを心がけている》ともおっしゃっている。
ぼくには、《あらゆる映画評において「できるだけいいところを探してほめる」ことを心がけている》などという態度が、どうして良いことなのかぜんぜん、わからない。
映画は、自分の子供ではないのである。
でも、まあこの映画の内田氏の《「忠実度においてすぐれた点」と「裏切り度においてすぐれた点」の両方についてレポート》を読んでみた。
たとえば、こういうことが書いてある;
☆ もう少し続けますね。「忠実度においてすぐれている点」は1968年の早稲田大学のキャンパスの再現。
このヘルメットかぶった学生たちのシュプレヒコールとヘルメットの色分けはまことに現実に忠実でした(社青同がたくさんいて、MLが一人だけしかいないとか、ね。中核と革マルの白メットが出てこないのは「時代考証」した方の個人的な趣味でしょうけど)。
あと、もうひとつだけ。
ワタナベくんが直子と一緒に暮らそうと思って借りたのは原作では国分寺の縁側のある日当たりのよい一軒家でした。そこでワタナベくんは、ぼおっとネコと遊んでいるんです。映画ではなんだか日当たりの悪い、潤いのないアパートで、これは「癒しのための場所」じゃないでしょう・・・と僕は思いました。(引用)
内田氏はここで、《1968年の早稲田大学キャンパスの再現》と書いているが、内田氏は早稲田大学学生ではなかったはずだ(もっと頭が良くダサイ国立大学出身である;笑)
1968年に早稲田大学キャンパスにいたのは、なにを隠そう(笑)、ぼくの方である。
内田氏はヘルメットをかぶって、早稲田大学キャンパスを“訪問”していたのだろうか!(爆)
次に《国分寺の縁側のある日当たりのよい一軒家》であるが、ぼくは現在国分寺から3駅の所に住んでおり、昨日も用事があって、国分寺労政会館に寄って帰った。
早稲田とか、国分寺とかは、ぼくの生きていた、生きている<場所>である、神戸で“関西弁”に囲まれている教授が、何を言うのか(笑)
もちろんこの“原作”を書いた、村上春樹は、ぼくの出身学部の後輩である。
“だから”ぼくは嫌なのである。
ぼくは早稲田も、国分寺も、春樹の小説に描かれたいろんな<場所>が、現在、嫌である。
もちろん<場所>というのは、ただ物理的に存在しているのではない。
なによりも、<そこ>には、“そこにいたひと”の記憶もしくは記憶喪失がともなっているから。
村上春樹『ノルウェイの森』を読んだ当時、ぼくは春樹に“好意的”だった。
にもかかわらず、この『ノルウェイの森』は嫌いだった。
この長編の元である短編『蛍』を、この長編はだいなしにした。
“そうしたら”、大ベストセラーである。
ここにも、趣味の悪い人がいかに多いかが、証明されている(笑)
だいいち、現在、ぼくは『ノルウェイの森』を、ほとんど覚えていない。
“緑”というキャラが嫌いだったこと以外は(笑)
さて、この内田教授ブログの“きわめつけ”は、最後の部分である;
☆ でも、最後にジョン・レノンのあのしゃがれた声で『Norwegian wood』が流れると、そういう細かな瑕疵は全部どうでもよくなっちゃいました。そうだよな、『ノルウェイの森』って、「そういう時代」の空気をくっきり切り取った物語だったんだから、そのときの音が聴こえて、そのときの空気の波動がふっと伝われば、それでOKなんだよね。
あと最後の最後に一つだけ。
ワタナベくんと緑ちゃんは新宿のDUGで会うんですけど、僕も実は1968年から70年ごろによくDUGでジャズを聴いて、お酒を飲んでいました。とてもシックでトンガッた店だったので、あの店をセットで再現して欲しかったですね。僕らが予備校生や大学生だった頃、女の子を連れてお酒を飲むというと、とりあえずDUGだったんです。村上春樹さんがやっていたジャズバー「ピーターキャット」の原型もたぶんDUGだったんじゃないかな。(引用)
神戸の内田教授はご存じないかもしれないが、DUGはいまでも新宿にあり、ぼくは先週も行って“クラマトジュース”(トマトジュースだよ)を飲んだ(笑)
現在DUGはぜんぜん“シックでトンガッた店”ではありません、叔父さん叔母さんや、イケてない“若者”がちらほらいるだけよ(爆)
1968年なら、DUGより消えてなくなったDIGがなつかしい。
あの2階の狭い店。
(しかしぼくはDUGで山下洋輔を聴いたのではないか)
ジョン・レノン。
ぼくのこのブログは、ジョンに“ちなんで”います。
だから、
《でも、最後にジョン・レノンのあのしゃがれた声で『Norwegian wood』が流れると、そういう細かな瑕疵は全部どうでもよくなっちゃいました》
などという感想は、許しがたい。
ジョン・レノンの声は、《あのしゃがれた声》などと形容して済ませられる<声>であろうか。
たぶん内田樹には、ジョンの声が、聴こえたためしは、ない。
《そうだよな、『ノルウェイの森』って、「そういう時代」の空気をくっきり切り取った物語だったんだから、そのときの音が聴こえて、そのときの空気の波動がふっと伝われば、それでOKなんだよね。》
などと回顧する、<ボケ老人>の感性と思想は、ぼくには何のかかわりもない。
こういう“文章”が、ぼくの“時代と場所とひと”を、マンガにしていく。
ただの、べったりとした回顧に。
切実なものは、ない。
『ノルウェイの森』は、いらない。
ジョンの声、だけで、よい。
頭かたいな、ばかやろう (爆)
Don't Let Me Down
ぼくはあんたみたいな名無しじゃない。
いまここにいる。
ジョン・レノンもそうだった。