まだその本を手にとってもいないのに“推薦した”立岩真也『人間の条件 そんなものはない』を昨日仕事帰りに買い、喫茶店で最初を読んだ。
この本は理論社のヤングアダルト向け“よりみちパン!セ”シリーズの1冊である。
すべての漢字にルビ(読み)がふってある(笑)、マンガ、イラストがある。
“もくじ”の次に、<簡単で別な姿の世界、を歌えないなら、字を書く>という文章がある(忌野清志郎一周忌の頃、この本の仕上げをしていた著者の心境が述べられている);
★ そして、歌うならともかく、字を書くなら、退屈でも、長くなっても、順番どおりに書こうと思ってきた。(略)短く言えることや言葉もいらないようなことは清志郎のような人に歌ってもらったらよい。私(たち)はそのずっと後ろにいて、退屈な、でも必要だと思う仕事をする。そういうことだろうと思う。
次に<序>があって、その“1なにが書いてあるか”に、あらかじめ各章になにが書いてあるかが書いてある;
★ だがしかしこの社会では、このぐらいはもっともというところを超えて、自分ができることがよいことだということになっている。どのようにか。またどうしてか。(略)つまり、できるから得をするのは当然のことではない。またできる人をほめてもよいが、それはそれ以上でも以下でもない(Ⅲ、85ページ)
そして、“2なぜそんなことを”がある;
★ ただまず一つ、できると得すること、得してよいとされること、できる人は価値づけられてよいとされることは、この社会の一番大きな部品だと思う。なんでも疑うのが仕事であるはずの(近代の)学問でも、このことは前提に置かれていて、私にはとても不思議なことに思えるのだが、疑われていない。
そして、第1章“Ⅰできなくてなんだ”に入る。
もうすでに立岩氏を読んだことがないひとには、上記引用箇所だけで“衝撃”である。
もしこれに衝撃を感じないひとがいるなら、はっきり言って、“あなたは鈍い”(笑)
しかしこの第1章での以下のような記述を読むと、ぼくも呆然とした(笑);
★ 私はものを考えて、ものを書いているが、それはまず仕方なく必要だから書いているのだし、いくらかは楽しいことである場合もないとは言わないが、しかしよいことであるとは思わない。
★ むしろ、人が観念を有してしまうこと、とくに有限性を知り死という観念を有してしまったことがよいことであるとは思えないし、それがよいことであるという理由も示してもらったことがない。詩人の長田弘に『ねこに未来はない』という本があるが、猫の方がよいように思う。それは私の好みであると認めてかまわない。ここで言いたいのは、すくなくとも人ができること、できてしまっていることが、とくによいことであるという理由を私は知らないということである。
もし上記引用箇所だけを読んで、立岩真也氏が、“かわったこと”を言いたいだけのひとであると感じるのは、まったくの誤りである。
そういう風に取られるなら、ぼくのこの引用は失敗である。
そうではなく、いかに立岩氏が“基礎から考える”ひとであるかを、ぜひこの本を自分で読んで実感してほしい。
*画像は”ロイヤル・ボタニック・ガーデン・エディンバラ”のフツーの猫(笑)