Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

簡単で別な姿の世界

2010-10-09 12:38:40 | 日記


まだその本を手にとってもいないのに“推薦した”立岩真也『人間の条件 そんなものはない』を昨日仕事帰りに買い、喫茶店で最初を読んだ。

この本は理論社のヤングアダルト向け“よりみちパン!セ”シリーズの1冊である。
すべての漢字にルビ(読み)がふってある(笑)、マンガ、イラストがある。

“もくじ”の次に、<簡単で別な姿の世界、を歌えないなら、字を書く>という文章がある(忌野清志郎一周忌の頃、この本の仕上げをしていた著者の心境が述べられている);

★ そして、歌うならともかく、字を書くなら、退屈でも、長くなっても、順番どおりに書こうと思ってきた。(略)短く言えることや言葉もいらないようなことは清志郎のような人に歌ってもらったらよい。私(たち)はそのずっと後ろにいて、退屈な、でも必要だと思う仕事をする。そういうことだろうと思う。


次に<序>があって、その“1なにが書いてあるか”に、あらかじめ各章になにが書いてあるかが書いてある;

★ だがしかしこの社会では、このぐらいはもっともというところを超えて、自分ができることがよいことだということになっている。どのようにか。またどうしてか。(略)つまり、できるから得をするのは当然のことではない。またできる人をほめてもよいが、それはそれ以上でも以下でもない(Ⅲ、85ページ)


そして、“2なぜそんなことを”がある;

★ ただまず一つ、できると得すること、得してよいとされること、できる人は価値づけられてよいとされることは、この社会の一番大きな部品だと思う。なんでも疑うのが仕事であるはずの(近代の)学問でも、このことは前提に置かれていて、私にはとても不思議なことに思えるのだが、疑われていない。


そして、第1章“Ⅰできなくてなんだ”に入る。

もうすでに立岩氏を読んだことがないひとには、上記引用箇所だけで“衝撃”である。
もしこれに衝撃を感じないひとがいるなら、はっきり言って、“あなたは鈍い”(笑)

しかしこの第1章での以下のような記述を読むと、ぼくも呆然とした(笑);

★ 私はものを考えて、ものを書いているが、それはまず仕方なく必要だから書いているのだし、いくらかは楽しいことである場合もないとは言わないが、しかしよいことであるとは思わない。
★ むしろ、人が観念を有してしまうこと、とくに有限性を知り死という観念を有してしまったことがよいことであるとは思えないし、それがよいことであるという理由も示してもらったことがない。詩人の長田弘に『ねこに未来はない』という本があるが、猫の方がよいように思う。それは私の好みであると認めてかまわない。ここで言いたいのは、すくなくとも人ができること、できてしまっていることが、とくによいことであるという理由を私は知らないということである。



もし上記引用箇所だけを読んで、立岩真也氏が、“かわったこと”を言いたいだけのひとであると感じるのは、まったくの誤りである。

そういう風に取られるなら、ぼくのこの引用は失敗である。

そうではなく、いかに立岩氏が“基礎から考える”ひとであるかを、ぜひこの本を自分で読んで実感してほしい。






*画像は”ロイヤル・ボタニック・ガーデン・エディンバラ”のフツーの猫(笑)





村上春樹の世界性

2010-10-09 09:35:34 | 日記


“世間”では今回のノーベル化学賞とか平和賞についての“お話”が姦しいようだが、ぼくは“文学賞”の話をする。

みなさん、今年のノーベル文学賞受賞者を知っていますか?
ペルーの“ホルヘ・マリオ・ペドロ・バルガス・ジョサ(リョサ)”である。
昨年はヘルタ・ミュラー、一昨年はル・クレジオである。

バルガス=リョサは、かなり前に日本で“ラテンアメリカ文学”の翻訳が活発になされた時期があり、バルガス=リョサの作品もかなり翻訳されたので、ぼくは彼の名を知っていたが、ちゃんと読んだことがない。

ヘルタ・ミュラーという女性は、実はこのブログを書くためにWik.を検索して初めて知った、“ルーマニア出身のドイツ語作家”とある。
翻訳されているのは、「狙われたキツネ」(山本浩司訳、三修社、1997年) とある。

バルガス=リョサの「緑の家」がちょうど岩波文庫新刊として出ている(昨日買った)<注1>


もちろん、文学作品の価値やそれを書いたひとの価値は、“ノーベル賞”によって決定するのではない(あたりまえだ)
しかし逆に、やはりノーベル賞を取る作家には、“世界性”があるのだとも思う。


ぼくにとって、大江健三郎とル・クレジオがノーベル文学賞を取ったことは、喜ばしいことである。
“取ってほしかった”(取るほどの世界性のある)日本作家は中上健次である。


さて、ところで、内田樹教授ブログが、“今年も使われなかったノーベル文学賞予定稿”というのを掲載している。
<村上春樹さんのノーベル文学賞受賞を祝う>である(爆)

爆笑である。

さて、どうして《村上春樹さんのノーベル文学賞受賞を祝う》が笑うほかないのかについて、この内田樹ブログをいちいち分析すべきであろうか?

実はそうしようと思ってこのブログを書き始めたのであった。<注2>

“村上春樹”という作家はぼくにとって、“自信を持って”なにかを言える数少ない作家である。
ようするに、ごく最近にいたるまで、彼の書いたものを“ほぼすべて”読んできたから。

そして、“あの”どうしようもない『海辺のカフカ』と『1Q84』でさえ、読んでしまったから(『1Q84』第3部はお金がもったいないから読んでない)


現在、ぼくはむしろこう思う。
現在“日本文学”がわかるか否かは、この“村上評価”にかかっていると。

こう言うことは、ある意味で、村上春樹を評価していることでもある。
ぼくは“本当に” 『海辺のカフカ』や『1Q84』を“評価している”ひとと<対話>してみたいと思っている。

単純に言って、“ほとんどの有名人”が、<現在の>村上春樹を評価している。
ぼくが読んだ、村上春樹に対する“批判”は小森陽一『村上春樹論 “海辺のカフカ”を精読する』 (平凡社新書)であるが、ここで小森氏は“怒りのあまり”やや感情的な論理展開をしてしまった(その“気持ち”はよくわかる;笑)


ぼくは“村上春樹”を読んできたのであるから、彼を才能のない作家であると思っていたわけではない。
“なぜ才能ある作家がこれほどまでにダメになったか”が<問題>なのである。

その<問題>が、“世界的”であるかどうかを知らない。
しかし、それは<戦後日本的>ではある。

たとえばそれを“わかりやすく”言えば、現在の日本の政治の中枢にいる人々が、“市民派”であったり、“元学生運動家(全共闘!)”であることとそれは“連動”している。

すなわちぼくはすでに、<市民はそんなに正しいのか?>というブログを書いている。<注3>


内田樹ブログの最後に、村上春樹の発言が引用されている。
この発言が載っている『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』という新刊書をぼくは昨日新宿紀伊国屋書店のベストセラー展示で見たが、手に取らなかった。

だいたいこのタイトル<夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです>が気に入らない(笑)

いったいこれは、少女マンガであろうか!

内田ブログから引用;

「僕は決して選ばれた人間でもないし、また特別な天才でもありません。ごらんのように普通の人間です。ただある種のドアを開けることができ、その中に入って、暗闇の中に身を置いて、また帰ってこられるという特殊な技術がたまたま具わっていたということだと思います。そしてもちろんその技術を、歳月をかけて大事に磨いてきたのです。」(村上春樹発言)



さて、こういう発言(言葉)をいかに<読んだら>よいのだろうか。

はっきり言って、こんなナルシスティックな発言は、ドーでもよい。

<作家>は、書いたものによって判定される。

ル・クレジオが書いたもの、大江健三郎が書いたもの、中上健次が書いたものと、村上春樹が書いたものを比較検討せよ(ほかのひとと比較してもよい、ドストエフスキーでもよい;笑)


内田樹教授は、『1Q84』第3部を読んだときに、“第1部と第2部に何が書かれていたか記憶が曖昧だ”と、とても<正直に>書いていたのである。

いったい文学とは、その程度のものであろうか。

もしあなたが村上春樹を“世界的”と信じるなら、『海辺のカフカ』と『1Q84』に“なにが書かれていたか”をぼくに説明してほしい。




<注1>

もちろん立岩真也『人間の条件 そんなものはない』(理論社)も買いました。
ついでに(笑)、大澤真幸『生きるための自由論』(河出ブックス)も買いました。


<注2>

しかし内田樹とか村上春樹を“けなしている”のも不毛ですね(笑)

ぼくは、本が読みたい、<新しい本>を。

新刊ではないが、宮下志朗新訳による『ガルガンチュアとパンタグリュエル 1』(ちくま文庫2005)も買った。
この16世紀に書かれた本も<新しい本>である。

“フランス・ユマニスム”について学んでみたい。

“ヒューマニズム”が瀕死である時に。


<注3>

ぼくがこのブログを書いた後にも、“市民”に関する注視すべき事態が起こっている。

昨日アサヒコムには、<小沢氏告発の団体とは 「保守」自認、政治的意図なし>という記事があり、以下のような記述がある;

☆小沢一郎・民主党元代表について「起訴すべきだ」との結論を出した検察審査会。東京地裁の脇の掲示板に4日に張り出された「議決の要旨」には、審査申立人の欄に「甲」とだけ書かれていた。小沢氏を東京地検特捜部に告発した市民団体だ。一体どんな人たちで構成され、何が狙いなのか。匿名を条件に、謎の団体の代表が口を開いた。
☆ その団体の名は「真実を求める会」という。
☆ 代表は、取材には氏名や経歴を明かしたが、それを公表することは拒んだ。メンバーは関東近郊に住む60代を中心とする男性約10人で、行政書士、元新聞記者、元教師、元公務員などがいるという。
☆ 政治的には「保守層」と自認する。自民党寄りではないか、との見方もあるが「政党とは関係ない」という。会の名前は、「右翼や政治団体だと思われないように、庶民っぽい名前」に決めた。
(以上引用)


すなわち、<市民団体>を名乗る人々が、“告発”した。
ぼくはここで小沢氏に対する告発が、正当であるか否かを言うのではない。

そうではなくて、この“市民団体”にたいする“いかがわしさ”を直感するだけである。
今後、自らを“市民-団体”であると名乗る人々の言動が、やすやすと“正当化される”ことを危惧する。

あるいは、自らを<市民>とか<市民団体>とか名乗ることによって、<人民people>を“扇動、支配せんとする”頭の良い人々を嫌悪する。

もっと簡単に言ってしまえば、小沢氏にも、小沢氏を告発した”市民団体”にもぼくは、まったく同質の”いかがわしさ”を感じる。

かといって、このぼくに”いかがわしくないもの”の基準があるわけではない。

村上春樹がどうして”いかがわしくない”であろうか?

だから、本を読み(他者の言葉を聞き)、このブログを書いている。







<追記>

もっと‘あっさり’言ってしまえば、村上春樹は1980年代で終わっている。

たしかに当時(1980年代)の春樹はぼくにとっても“かがやいて”いて、その後遺症が1990年代までは残った。

しかし2000年代になって、この“春樹シャイニング”は急速に薄れた。
“ぼくにとって”と言うべきか?

それでもいいのだが、これほど2010年においても、春樹を奉る人々がいるのは、やはり“社会問題”ではないのか。

もちろん“社会問題”とは、“文学問題”である。

たとえば、ここ数年ぼくが読んだ日本の現役作家で、青山真治にぼくは、1980年代に春樹に感じたのに“近い”ときめきを感じた。
しかし現在のぼくのスタンス(立ち位置と年齢と感性)が変わったため、青山に春樹に夢中になったように惹かれたわけではない。

ぼくは青山真治の『ユリイカ』の映画をまず見て、それから小説を読んだ。
そのときは、すぐれた資質だがイマイチと思った。
しかし『ホテル・クロニクルス』と『Helpless』を読んで、彼は本物だと認める。
少なくとも青山が“世界的”であるかはわからないが、村上春樹と同等の価値はある。<注>

いや、春樹より後に来た青山の書く世界のほうが、春樹より<具体的>である。
(もちろん青山の他の小説にはあまり感心できないものもある)

それにしても『ねじ巻き鳥クロニクル』以来の村上春樹の<悪>表出における、“デヴィット・リンチ的想像力=イメージの貧困”をどうしてだれも怪しまないのか?

いまぼくたちに必要な、“対抗すべき悪”のイメージは、“シュールなオカルト”ではなく、この日常生活の具体性の中にある。

すなわち、<具体的なイメージ>の措定=表出が必要である。

必要なのは、漠然としたオカルトではない、あくまで<具体>である。

それを表出できない“表現者”は、すべて<ブラインドネス>である。


<注>

だから現在の“若者たち”が、なぜ春樹の『1Q84』に群がるのに、青山真治を読まないのか、理解できない。
結局、本の選択もマスメディアの大量宣伝によってのみ決定するのであろうか。

つまらない”権威主義”の支配。

このような”嘘”を鋭敏な感受性で見抜く者を、<若者>と呼ぶのではなかったか。