《トカトントン》とは、ある<音>である。
すなわち太宰治の短編のタイトルである。
この音をぼくは(ぼくも)ひさしぶりで聞いた。
宇野邦一の“崩壊の歴史家―太宰治”という文章で。
ぼくはこれまでに、“この「トカトントン」が印象的だった”という文章をいくつか読んだ記憶がある。
またぼくも、何十年も前に読んだこの短編を憶えている。
読んでないひとのために宇野氏の描写を引用する;
★ 『トカトントン』は終戦後のある日、大工のハンマーのトカトントンという音を聞いて、すべてが空しくなってしまうという体験を書いたものだ。何をしようとしても、何かに感動しても、いつもこの音が聞こえてきて、すべてが空しくなってしまう。
さらに宇野氏は太宰には“対極的なもの”があったとする、たとえば『右大臣実朝』や『惜別』である;
★ 実朝は、『斜陽』の「お母さま」に似て、権力からも倫理からも解放され、いつも穏やかに微笑し、光や風と戯れ、結局は、この世界の暴力や不条理の犠牲になるしかないような存在である。
すなわち宇野氏は、実朝や魯迅に“ナイーヴなデリカシーを注ぐ”太宰の対極に、“崩壊の道を歩む悪魔”としての太宰のデカダンスを見ている。
しかし宇野氏は以下のように語る;
★ 太宰の生きたほんの短い「戦後」は、太宰の崩壊をおしとどめるどころか、かえって加速したようだ。だからといって太宰は戦争をまったく無傷に生き延びたわけではない。太宰が示した「崩壊」に対する醒めた意識によってこそ、人は戦争のような事態にも耐えるのだし、また戦争のような事態がなくても、確実に消耗し滅んでいく。そういうあたりまえで、異様なところに太宰はいつづけたので、いまも稀有な「歴史家」であり続けている。
ぼくはこの“結論”を、“まっとう”だと思う。
しかし、ぼくは“トカトントン”が好きではない。
つまり<音>(音響)の問題である。
ぼくはジミ・ヘンドリックスのギターの“ゆがんだ”音や、ジャニス・ジョプリンの“しぼりだす声”が好きである。
逆に、キース・ジャレット、ゲーリー・ピーコック、ジャック・デジョネットがトリオを組んだ最初のアルバムの最初の曲(“Meaning Of The Blues”)イントロの音の<完璧な関係>が好きである。
あるいは、グレン・グールドのピアノによる、毅然としてかつ陶酔的かつ夢想的なバッハが。
ぼくは宇野邦一に“反論”したいのではない。
ただ<音>のことを言いたい。