Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

マルグリット―b;静かな生活

2010-10-24 12:24:41 | 日記


★ 太陽は傾き、影が長ながと丘の中腹に伸びていた。テラスのそばに木蓮の木が二本ある。ふと一輪の花が、私が肘をついている手すりの縁に落ちた。落花は、あるにおいというよりも、とても甘くて、すでに腐りかけたある味を発散していた。まさしく八月であった。

<マルグリット・デュラス『静かな生活』(講談社文庫1971)>




★ その馬を買うのはいい考えだと3人とも思った。たとえ、ジョセフの煙草代にしか役立たなかろうと。第一、それは一つの思いつきであり、彼らがまだアイディアをうかべられるということを証明してくれる。次に、この馬によって外の世界との結びつきを取りもどして孤立感が薄められるし、ともかくその世界から何物かを、たいしたものではなく惨めなものであろうとも、それまでの彼らのものでなかった何かを引き出して、それを、平原のうちの、塩に満ちたこの片隅にまで、倦怠と苦難にみちみちた三人のところまで運んで来ることができる。

<マルグリット・デュラス『太平洋の防波堤』>



★ 思えばわたしの人生はとても早く、手の打ちようがなくなってしまった。18歳のとき、もう手の打ちようがなかった。18歳から25歳のあいだに、わたしの顔は予想もしなかった方向に向ってしまった。18歳でわたしは年老いた。

★ 言いそえれば、わたしは15歳半だ。
メコン河を一隻の渡し船がとおってゆく。
その映像は、河を横断してゆくあいだじゅう、持続する。
わたしは15歳半、あの国には季節のちがいはない。いつも、同じひとつの、暑い、単調な季節、ここは地球の上の細長い熱帯、春はない、季節のよみがえりはない。

<マルグリット・デュラス『愛人 ラマン』>



★ これは本だ。
これは映画だ。
夜。

★ ここで語る声は、本の声、書かれた声だ。
盲目の声。顔のない声。
とても若々しい声。
沈黙の声。

★ それは仏領インドシナ南部の僻地の、とある白人居留区。
1930年のこと。
それはフランス人地域。
それはフランス人地域の、とある街路。
夜の匂いは茉莉花(ジャスミン)の匂い。
それが、河のむっとする柔らかな匂いに混じる。

<マルグリット・デュラス『北の愛人』>





マルグリット

2010-10-24 11:49:17 | 日記


★ 記憶の歌、欲望の灼熱、苦悩の漂流、憤怒、叫び、期待、沈黙、マルグリット・デュラスにおいては、すべてが彼女の著作の拒み得ない源泉となり、それらの肉そのものとなる。作品と生活は、ただひとつのアヴァンチュールの二つの相貌である。迷路のなかで導くアリアドネの糸のように、生活が作品を追認し、作品は生活を追認する――《書かないときはまったくありません。わたしはいつだって書いています。眠っているときさえもです》

★ 生きることとはなんなのだろう、という問いは、書くこととはなんなのだろう、という問い以外のなにものでもない。そして、それだけでは十分ではない。同じ激情のなかで、因習への無関心さのなかで、ともかくも生き、書かねばならない。反抗、愛、あるいは絶望を激化させながら、自己の突端にまで行き着かねばならない。エクリチュールを解放すると同時に支えもする、存在の暴力を明るみに出すためにそうせざるをえないのだ。

★ 《人々は書くことはやさしいと思いこんでいるが、逆です。おわかりでしょう、それは地獄なのです》

<クリスティアーヌ・ブロ=ラバレール『マルグリット・デュラス』(国文社1996)>





この本の扉にあるデュラスの言葉;

★ なぜ作家について書くのだろう?
彼らの本だけで十分なはずだ。



この本に寄せられたデュラスの言葉(“序=彼女はわたしについて書いた”);

★ クリスティアーヌ・ブロ=ラバレールがエクリチュールを語るために存在しているのは、彼女がわたしに、わたしがシャムの森でエクリチュールに出会ったと言うのは、驚異的だ。そして彼女がそれを言うとき、わたしはそれを信じるのだ。死の、光の、悲惨の、わたしのこども時代の森――ブロ=ラバレールによって指し示された女性によって今や書かれた、あの女乞食の森を信じるのだ。(1993年冬)

(デュラスは1996年3月3日死去)