★ 私は、かつて、現代社会における次のような事実を指摘しておいた。消極的な自由について言えば、自由は、今や、十分すぎるほどに保障されている。「消極的な自由」とは、他者によって阻害されたり、禁止されたりしていない状態である。われわれは、ある意味で、寛容で許容度の高い社会を生きている。それならば、われわれは自由を謳歌できているだろうか?ところが、どういうわけか、生はなお空虚で、閉塞感を帯びたものとして感じられるのだ。あなたは何をしてもよい、と言われる。ところで、私は何をしたらよいのか?何をすべきなのか?何をしたらほんとうに生きていることになるのか?そうした指針がまったく蒸発してしまったように感じられる。それが現代社会における自由の困難である。自由の過剰と自由の空虚化が同時進行しているのだ。その原点には、第三者の審級の撤退がある。
★ 自由は、他者との関係の中で発生すると述べた。その他者を、私は、第三者の審級と呼び換えてきた。しかし、その呼び換えは、実は過剰なものである。自由が他者との関係の中に宿るのは、私がこの私であるという最小限のアイデンティティの中に、<他者>への存在への参照が含まれてしまうからである。
★ ここで肝心なことは、その<他者>は、第三者の審級でなくともよい、ということだ。それは、ごく普通の他者、第三者の審級へと転回する以前の他者である。そのような<他者>との間で、自由を、純粋状態で、いわば発生状態で復活させることができるのだ。
★ イエス・キリストの「善きサマリア人」の喩えを、このような文脈で思い起こしてもよいかもしれない。これは、ある律法学者がイエスを試そうとして、「隣人を愛しなさいというが、隣人とは誰のことか」とイエスに質問したときに、イエスが与えた答えである。
★ 神(第三者の審級)への近さを標榜する祭司やレビ人は、強盗に襲われた人に対して隣人として振る舞うことはなかった。サマリア人だけが、そのように振る舞ったのだ。彼は、神の問いかけに応えてそうしたのではない。ただ、路傍で倒れている人の呼びかけに応えただけである。
<大澤真幸『生きるための自由論』(河出ブックス2010)>