Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

いじめるひとと、いじめられるひと

2010-10-28 11:11:21 | 日記


今日の読売編集手帳;

芥川龍之介の歌がある。〈幾山河さすらふよりもかなしきは都大路をひとり行くこと〉。にぎやかで華やいだ空間に身を置くとき、大のおとなでも孤独は骨身に染みとおる◆食器の触れ合う音と、笑い声と、おしゃべりと、好きな子同士が机を寄せ合って食べる給食の時間は毎日、ピクニックのような楽しい音に満ちていただろう。ひとりぼっちのその子には拷問の時間だったかも知れない◆自殺した群馬県桐生市の小学6年、上村明子さん(12)の父親によれば、以前にも同級生から「近寄るな」「汚い」などと言われたことがあり、両親が学校側に10回以上も、いじめについて相談していた◆事件後の保護者会でいじめの有無を問われた校長は「プライバシーの問題」だとして答えなかったという。「保身の問題」と聞こえる。死んだあとまで、明子さんを泣かすのはやめよう◆遺品を整理していた家族は、明子さんがノート3ページに描いた漫画を見つけた。「関口桜」という名の女の子が新しい学校に転入してきた設定である。表題は〈やっぱり『友達』っていいな!〉。架空の少女に見果てぬ夢を託したのだろう。(引用)



ぼくもこのニュースを見て、気にかかった。
“いじめ”は、ぜんぜんめずらしくない、もういじめは日常化したので、ニュースにはならないのかと、思っていた。

上記引用のような“言説”を読むだけで、いろんなことが言えるだろう。

まず“仲間はずれ(にされる)”ことと、“孤独”はちがう。
もし孤独であるなら、《都大路をひとり行く》ときも、自分の部屋にひとりいるときも孤独である。

友達といっしょに給食を食べているときも、孤独である。

しかし上記引用についてぼくが言いたいことは、次のことである。

この読売編集手帳を書いているひとは、いじめる側にいるひとなのか、いじめられる側にいるひとなのか?

いっぱんにひとは、いじめる側にいることも、いじめられる側にいることもあるのである。

そのどちらの側にいるかを、選択でき、“意図的”であることもあるだろうが、ただ付和雷同していることの方が多いのではないか。

すなわち<多数>に付和雷同していれば、仲間はずれにならない(笑)
どうも“これ”が、日本社会の基本構造のような気がする。

たぶんこれがダメなのである。

《やっぱり『友達』っていいな!》という漫画を描いて、自殺した少女には、胸が痛む。
たしかに、そういう素朴な感情は、ぼくにもある。

しかし、この少女には、生きてほしかった。

《大のおとなでも孤独は骨身に染みとおる》

しかし誰が、<孤独>を知っているのか?

この<社会>で、友達を得ることが、どんなにむずかしいことなのかを知って、なお、生きてほしかった。





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1 コメント

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Unknown (日本共産党めっちゃ大嫌い男)
2010-10-29 03:38:02
お母さんが フィリピンのかただからという 理由だけで いじめられた。
明子ちゃんが どうしようもできないことで いじめるのは 卑怯だな。

学校の先生も 金八先生みたいに いじめに 取り組んで いじめた子に 注意するべきだ。
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