Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

この日本社会でうまく生きるには

2010-10-12 07:56:02 | 日記


不破利晴最新ブログ<折れそうな心をどうにかする-その1>を読んで、昔の大江健三郎の言葉=“壊れものとしての人間”を思い出した。

ある社会を生きていく“方法”には、あっさり言って2種類ある;

① その社会にどんな矛盾があろうとも、“順応”して生きる(積極的にか?消極的にか?)
② その社会の矛盾とたたかいながら生きる(積極的にか?消極的にか?)

まあ、この①と②の間を行ったり来たりしたり、どちらも“選ばないで”なんとなく生きてしまうこともある(笑)

しかも、どちらの生き方が“成功”するか、どちらの生き方が“幸福である”かも不明である。

つまり、“順応する”人のほうが、成功率は高いだろうが、そういうひとが、ほんとうに“しあわせ”かも証明されてない。

順応しようと一生懸命しているのに、結局順応しそこなうこともある(笑)

たしかに上記のような単純化に“からんで”、<病気と死>の問題がある。

最近ぼくが絶賛している立岩真也は、『人間の条件 そんなものない』という本の最後の“谷川俊太郎さんからの四つの質問にこう答えた;

質問:「何がいちばん大切ですか?」
答え:生きていること。
質問:「何がいちばんいやですか?」
答え:いまは死ぬこと
質問:「死んだらどこへ行きますか?」
答え:どこへも。了り(おわり)


ぼくはこの応答には、そんなに感心していない。
つまり、これだけでは、わからないのだ(だから、立岩を読む)

しかし、やはり、《生きていることがいちばん大切だ》というのは、<思想>である。
しかも《死んだらどこへも行かない、おわり》というのは、<思想>である。

ただこういう極限的回答というのは、説明される必要がある。
つまりそれが立岩氏の“書くこと”なのだと思う。

つまり、死んだらどこへも行かない(行けない)“から”、生きなさい、と言われても、どうやって生きたらよいか“分からなくなった”ひとは、生きようがないとも思える。

原因は様々であろうが、それまでの自分の心身状態から、ある日、逸脱してしまうことがある。

一般に、それを<病気>という。

からだの病、と、こころの病は、いちおうちがったものと“分類”される。
科学(医学)は、分類し、病名を決めないと(基本的)に治療できないのである。

しかし“病名”が決定できない病気さえあり、病名が決定しても、その治療法は一律ではない(もし一律であっても、その治療が“効かない”こともある)

またある病気に対して、複数の治療法がある場合、その選択ということもある。
だれが選択するか?

しかもその選択の範囲も、現在の医療の水準における“選択肢”にすぎない。
また、新しい選択が現れてきたとき、その新しい方法を採用すべきか否かを、迷う。
(選択肢があっても、おカネの問題で、“選べない”こともある)

医者や病院に、おまかせすれば、安心ということではない。
だが“素人の偏見”を行使すべきでもない。

なぜか自分で書く予定でないことに言葉を費やしているが、実は、こういう<病気>のみが病気ではないというのが、ぼくの論点である。

すなわち、ぼくには、“病気である”ことと“病気でない”ことの<ちがい>が、ますますわからなくなっている。

もちろん、あきらかに病名が付き、その“病気”に対する、スタンダードな治療法が存在するなら、まず“普通に”治療することは、まちがっていない(そういう場合にも、問題があることがあるにせよ)

しかし時々、ぼく自身も、<このブログ>を読み返して、自分が病気であるのではないかと疑うのである(笑)

《腰のあたりまで髪を伸ばした、ちょっと不潔でちょっと不細工な若者(男)は、なにやら呟きしきりにノートに何かを書いている。斜め後ろにいた僕からはその内容がある程度読み取れるのだが、明らかにその文面は破綻している。》(不破利晴ブログ引用)


ぼくには、《腰のあたりまで伸ばす》髪はないけれど、《明らかにその文面は破綻している》ということが、ないであろうか?

これはぼくの<悪夢>である。

ある朝起きて、いつものように昨日書いた自分のブログを読み返す。
《明らかにその文面は破綻している》 !!!

しかし、もし、自分で自分の文面が(ブログが)、“明らかに破綻して”いると気づくなら、ぼくは狂っていない(爆)
気づかない、ことが、恐ろしい。


しかし、“そう”だろうか?

一見、どこから見ても、狂っていない<ひと=言説>こそ、狂っているのではないだろうか!


このブログのタイトル=<この日本社会でうまく生きるには>から逸脱した。

そんな<方法>をぼくが知っているわけは、ない(ごめんね)




<補足>

上記ブログが“不親切”である場合には、最近の“引用”から補足したい;

A:神(第三者の審級)への近さ標榜する祭司やレビ人は、強盗に襲われた人に対して隣人として振る舞うことはなかった。サマリア人だけが、そのように振る舞ったのだ。彼は、神の問いかけに応えてそうしたのではない。ただ、路傍で倒れている人の呼びかけに応えただけである。<大澤真幸『生きるための自由論』(河出ブックス2010)>

B:カトリーヌのモットーは、それは「たいしたことじゃない」あるいはむしろ「それがどうした?」で、この言葉で彼女はあらゆる逆境にあらがい、この言葉がここにいる彼女を超えて、現実的だが悲観的ではなく、素っ気無くて正直な、二十歳のころの娘のままに彼女をとどめているのだった。<ル・クレジオ『はじまりの時』(原書房2005)>



Aの大澤氏の新刊からの引用は、『生きるための自由論』という本の第1章“<自由>の所在”の最後の部分である。
この本においても大澤は、脳科学、フロイト-ラカン理論などを“華麗に”引用しつつ、このように“一見素朴な”結論を述べている。
読む人によっては、それまで展開された“最新理論”に対して、この“善きサマリア人”は“肩すかし”と感じられるかもしれない(ぼくも多少そう感じる)
しかしここで大澤は、それまでの自分の理論の核心概念<第三者の審級>に“変更”を行っているように見える。
《ただ、路傍で倒れている人の呼びかけに応える》のである。


Bの引用で、くっきりと浮かび上がるのは、《あらがう》という言葉である。
ぼくはこの言葉のフランス語を知らないが、《あらがう》という日本語は、現在のぼくにはとても必要な(重要な)言葉だと思った。