Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

不破利晴への手紙 09-12-27

2009-12-27 10:38:16 | 日記

★不破利晴コメント(“Snapshot;;<マス>メディア”に対して)

Unknown (不破利晴)
2009-12-27 00:18:40
「革命」と聞いて、いろんな思いが錯綜し、コメントではなく、結局記事になってしまいました(苦笑)



★返信

昨夜寝る前に君の“2012”を読んだんだが、ぼくのブログへの<反応>とは、思わなくてさ(笑)

君が<革命>という言葉に反応してくれたのは、うれしいが。

ただ、ぼくが<革命>という言葉を、いま使うなら、あんまり<行動>のことはイメージしてなくて(イメージできなくて)ね。

ぼくとしては、いま好きなのは<新しい天使>でね(笑)
天使というのは、宗教的な概念だし、ベンヤミンの場合も“ユダヤ教”は無視し得ない。
けれどもぼくは、宗教的でも(いわゆる)マルクス“主義”的でもない<天使>を夢想するわけ。

ベンヤミンの文章自体がそれを<告知>していると感じる。
ぼくはずっと、ぼくにとって“中心となる人物”をさがしてきた。
ずっとサルトル、メルロ=ポンティ以降のレヴィ=ストロース、フーコー、ドゥルーズ、デリダのようなフランス思想をフォローする必要を感じてきて、それを放棄していない。
彼らはそれぞれ違っているが、そこには決定的に新しいものがあると思う。

さらに“その背景”には、マルクス、ニーチェ、フッサール(現象学)があり、さらにその背景にカント、ヘーゲルがいる。
そしてフロイト―ラカンがいる。
最低でもこれらのひとびとについて、自分なりのなんらかの手応えを得たいと思う。

ただこれらの人々のなかで、だれを<中心>とするかで迷ってきた。
そこにベンヤミンがあらわれた。
そしてやっぱりフロイト(笑)

ぼくは<哲学>をやりたいわけではないし、<社会思想>という“くくり”のほうが、ぼくの問題意識に近い。

また、“テクストかひとか”という次元があり、実は、ぼくはけっこう<ひと>なんで、ベンヤミンという<ひと>に惹かれる(もちろんベンヤミンの“テクスト”も最上だと思うが)

そして、当然さらに、“本を読む”こととは別次元の、<行動>があることは、ぼくも了解している。
しかし、この<最後の行動>については、ぼくには“自発性”は、ぜんぜん予想できない。

まさに、君が言うような<危機>が到来する可能性がある。
その時は、ぼくは“巻き込まれる”だけだと思う。
あるいは、その時、ぼくがいかに<行動>できるかは、まったくの未知だと思う。

そういう<意味>では、ぼくに<主体性>など残念ながら、まったくない。
しかし、現在進行形でぼくがやること、本を読むことも行動=実践であると考える。

つまりぼくは<革命のために>準備したりはしない。
こういう言い方は、一種の<逃げ>でもあるが、むしろ<革命>はひとつの出来事(エポック)ではなく、まさに日々実践されることだと思う。

結局、“マルクス主義的な”<革命>のまちがいは、歴史的必然により、矛盾がピークに達したときに、革命が起こり、“理想社会が”実現する、という神話だ。

そういう<意味>では、<理想社会>などこない。
これは<天国や地獄がない>ことと同じように明解なことである(笑)

まさにこのような<発想>が、くるっている。

ぼくたちは、自分の人生も、この社会も、完全にコントロールすることなど、決してできない。
だからあきらめるのではなく、放棄するのではなく、居直るのではなく、<考えつづける>わけである。

つまり、たとえば、ベンヤミンのような(もちろんベンヤミンひとりではない)根源的な思索者も“偶然(運命)”に翻弄された。
まさに<その渦中で>考えたのだ。

ぼくはそういう<人間の実在>しか信じないし、興味もない。

ぼくらは、“結論を出す=結論を出し、実践的指針を与える”ためだけに考えているのではない。
そう“考える”ことも必要であり、この世の具体的悲惨にたいして、異議を提出し、少しでもその現状を変えることは、必要だ。

しかし、そのためだけに考えるなら、その“現実的効果”は、いつも皮相なものにとどまる。

<永続革命>とは、派手派手しい“スローガン”にあるのではなく、まさに、この日々をどう生きて、死ぬのかという<実践>、この<ぼく>という人生のただ一度の実践にある。

ぼくや君の<孤独なたたかい>は、他者と世界との関係が錯綜するこの<社会=環境>のただなかでの日々の行動=実践なのだ。




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