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18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

投票とは何か? 選挙とは何か?

2019-07-20 11:09:00 | 

政治とは何かを一言で表すなら「白黒はっきり決められない事の答えを出す」こと。

賛成の人、反対の人、双方にはそれぞれ主張がある。



主張の前提は「基本的人権」「参政権(被選挙権、選挙権)」そして言論の自由がある。



ところが、多くの選挙演説で「ヤジ」がひどい。

このヤジ「言論の自由じゃないですから」




論の自由は、「主張」や「考え」の発言の自由であって、誹謗中傷、ヤジ、暴言などの為にあるものではありません。




このレベルのことさえわかっていない、有権者・市民・国民があまりにも多い。




政治云々以前の段階で、教育とか社会性とかが全く足りていないことに情けなさを感じてしまう。





言論の自由をはき違えているその二つめに、感情論が優先する発言、思考である。

特に政治のように「白黒はっきり決められない事の答えを出す」時には、感情論ではなく、客観性、論理性が必要。これがいわば法律なのだけど、なぜ感情論ではいけないかというと、感情論というのには一貫性がなく、そこから得た結論が恣意性に富んでしまい、収集がつかなくなる可能性があるから。

恣意性とはつまり、同じ事に対して、有るときはOKであるときは悪いという結論を出す事。例えば金持ちだから許され、貧乏だから許されないといった結論もまかり通ることになる。よって「法の下の平等」のために、法があり、司法(裁判所)がある。



政治についての議論の前にこの二つのことをまずわかっておかないといけない。





我々が日本で普段の生活ができているのは、この法の下の平等と、言論の自由が許されているから。
法の下の平等と、言論の自由の上で、さらに複雑な問題を解消していくのが政治であり政治家の仕事である。





さて、今回の選挙。SNSによる互いの政党、政治家の主張を観ていると、結構「相手批判」が多い。

「言論の自由が許されている」からいい、という考えもあるが、先に述べた「言論の自由」とは何のためにあるのかということに立ち返ると、相手批判の為の言動の愚かしさ、程度の低さがよくわかる。こんなことの為に言論の自由があるわけでもないし、また事実を誤解を招くように伝えたり、事実を曲げて伝えたり、事実と私的意見を混ぜてあたかもすべてが事実であるように伝える為のものでもない。



そんな政治家や政党は、終始そういうことに血道をあげる。



政治は「白黒はっきり決められない事の答えを出す」為にある。



のであって、悪口を言い合うものでも、プラカードを掲げるものでもない。



議論は「反対!」と声をあげる事から始まる。だけども大事なのはその後。どれくらい冷静な議論ができるかでしょ?


憲法改正反対!でいいけど、「感情論」だけをあおるのは政治家のやるべきことではない。それは活動家たちのやり方。

賛成の意見の論拠に耳を傾けないのも、冷静で論理的でない。




有権者は、できる限り広く知識をもって真摯に、解決方法を探る為の議論を進められる政治家を、政党を選びたい。




有権者は、投票しようとしている政治家や政党が、そのような人たちなのか、最低限見極めてから投票すべき。




そのために、有権者は勉強しなければならないが、それは「選挙権」という権利を行使する為の最低限の努力だろう。



改めて、考えて投票に向かうつもりだ。












お金の為に働いてるんで・・・

2019-01-27 09:23:00 | 
以前いた会社で、若手の技術者から「僕は、お金の為に働いているんで、スキルアップとか興味ないんです」と言われたことがある。


そう、なぜ働くのか? 

第一義には、収入を得る為、収入を得て生活をするため。

寝転んでいて、生活保護をもらっても、心身ともに働けるのであれば役所の福祉課も働けという。

勤労の義務、納税の義務、教育の義務は憲法に定められている。

これらの義務は、国民に課せられている。



憲法的にも、国民は働く権利と働く義務を負っている。



とにかく、生きるため、食べていくために働くのである。










が、










では、働くことをどれくらい続けなければならないか?


原則的に一生である。これは憲法にはないが、無いという事は、ずっと無期限にである。






どんな働き方をしてもいいが、いわゆる平均的な生活をしたいと考えると、家賃、光熱費、食費などが必要。また病気やケガをしたら病院に行かなければならない。


それだけではない。多くの人たちはスマホ、携帯電話を持っている。持っているだけでも数千円の費用は毎月払っている。




こんな様に、長く生きていくと生活にかかるコストも増えていく。





一方で、勤務先も必ずしも安泰とは限らない。





そう。つまり、「安定」を前提にできれば、本当に食べるだけの為に働いていてもいいのかもしれないが、世の中は常に不安定である。それは、よい事も、悪いことも起きるという事であり、社会全体で起きることもあれば、個人個人に起きることもある。





普通に考えればわかるが、世の中はそもそも「不安定」なのである。





大手企業や、公務員がいいなぁと思う心理の何パーセントかはわからないが、やっぱり不安定を回避したい考えがあるから、志向する。





農耕民族のDNAを強く持っている日本人ならなおさらだろう。





では、どうやってこの「安定」を手に入れるか?





答えは簡単で、あなた自身が「不安定さに対応できる」ことである。





多くの資格を取り、実践経験があれば、たとえ今就いている仕事が無くなっても、別の経験を生かして仕事ができるだろう。なにせ生きていかなければならないのだ。




あるいは、現在就いている仕事で、そこそこの実力をつけて頭角を現すというのもある。同業者の中である程度の知名度を獲得するとか、スキルと行動力において周囲から一目を置かれるとかである。

そうすると、自分自身がこれまで培ってきた経験を生かせるし、スキルレベルや経験が多く、実績があれば新しく働く先でも、ゼロからの評価でないから、少なくともそれまでもらってきた給料ぐらいは獲得できるだろうし、もし需要と供給が合えば、給料アップも狙える。




どうだろうか?




「お金の為に働いているので、スキルアップに興味がない」というのは、まったくおかしな話だということがお分かりになっただろうか?



お金の為に働くというなら、どこでも通用する、周囲から一目を置かれるスキルを身につけなさい












「道」

2018-12-27 10:03:00 | 
タイトル「道」

「みち」と読んでもいいし「どう」と読んでもいい。




柔道、剣道、空手道、人道などで使われる「道」は「どう」と読んでいる。



この「道」はなぜ必要なんだろう?



柔道も剣道も空手道、相撲道もいわば武道に分類される。



なぜ、「道」がつくのか。




道は、みちであり、進むべき方向を示すもの。




そう、つまり柔道や剣道、相撲道も「みち」を外れずに進みなさいという意味が含まれている。




武士道もそう。




武士は刀をもって人を斬ることができる。




実際に刀を手にしたことがある人も少ないだろうが、居合い抜きの練習で使われる刃のついていない刀を手にしたとき、「ずしり」という重さがあった。




竹刀とか塩ビでできたおもちゃの刀とは違う重量感。




これに恐ろしく切れる刃がついたら、重さに従って振り下ろすだけで確実に人の腕は切り落とせる。




映画などで侍が切腹する際に、介錯として首を切り落とすが、スパっと斬り落とすことはおそらく可能だろう。






そんなものを持ち歩いているわけだから、侍同士がかりに刀を抜くようなことがあれば、無傷というわけにはいかない。





そういう本人以上の力を持ち得るからこそ、道を外れずにという意味で武士道があるのではないか。





道とは、すなわち、道を外れない事。





そういえば、道徳的なんていう言葉も存在する。人道支援という言葉もよく聞く。





そう、道とは理屈というよりも社会の中で人が安心して、幸せに生きていくために必要な「マナーであり、良識であり、知恵」なのだろう。








一方で、「道」なんていうものを全く無視している人もいる。







道の外で生きる人らは、外道。本来のやり方じゃない方法で事を進めるのを邪道。






やはり道は大切らしい。





「だれも見てないなら、これくらいいいか」なんて自分に甘くしてしまう事も人だからあるだろうが、そんなやましい心が出てきたときには「お天道(おてんとう)様が見ていると」昔はよく言ったものだ。




では、道はどのようなものだろう?




ここでよりどころになるのが、人によって違う。




ある人は、仏教だと考え、ある人はイスラム教、またある人はキリスト教だと考える。

世界にはさまざまな宗教があるが、すべては結局「道」につながっているように思う。

自然に対する畏怖から、生贄をささげたりした古代宗教もそうだろう。



自然には神的なものが存在すると考えて発生した神道を~教と呼ばずに神道と呼んでいることから考えると、やはり日本人の根底には「道」というものに対する考えが脈々とつながっているのではないだろうか。






ここ最近、さまざまな事件を目にする。罪を犯す人に性別も年齢もなくなってきている。

高層マンションの上層階からゴミを投げ捨てたり、我欲のままに人の命を奪ったり、何かのうっ憤を晴らすのに盗みや暴行を行っている。

様々な交通トラブルもそうだ。軽はずみな行動が大きな事故や人の命を奪う事につながっている。



そんな様子を見ていると、「道」という考え方がだんだんと薄まっていのではないかと感じてしまう。




「道」とはまっすぐ進むもの。外れないように、自らを律するもの。自らに対する甘さが生まれるからこそ、律して、人道にそむくことなく進む必要があるのだ。






どうやら、この世の中で生きる事こそが、なんだから修業のように思える。





自分を律し、道を外れず。





そうすれば、平和で、安全で幸せに生きられるんだろう。




道に外れないでこの世を生きたら、あの世ではご褒美が待っているのかな。




ん~なんだか宗教めいてきた。



この辺でやめておこう。






でも大切な事だと思う。




「ズルしてもいいけど、お天道様が見ているよ」




道に沿う事は、案外難しい。












言い訳症候群

2017-10-04 17:54:00 | 
人って自然に言い訳を口にしているもので、指摘されてもそれを納得できないほど自覚がない。




これ、実は結構ヤバい習慣です。




特に「やらない言い訳」



最初っからやるつもりは一切無かったり、やる必要がないならば、言い訳も何もなく、ただ単に「やらない」でいい。



が。



公務員でない限り仕事で「言われてないからやりませんでした」と言う“習慣”は、確実に人生そのものを蝕む。





実は、同じ会社の同年代の社員と会話していて、リーダーシップを発揮してやって欲しいとお願いしたところ、『いや、もうちょっと業務の中身も理解して…』と言う返事が返ってきた。

『それ、言い訳にしか聞こえないよ』と指摘したら『言い訳じゃなくて…』



本人は説明しているつもりでも、求められた事に対して、最初に自分を守る発言をしてしまう習慣のある人は間違いなく言い訳症候群です。



これは「習慣化」している人の話なので決して個々の事情を加味しないと言ってるわけじゃないので、間違わないでね。




習慣化すると、言ってる本人に対する周囲の評価が次第にネガティブなものになってしまいます。

そうすると責任ある仕事を依頼されなくなり、同じ年数、同じ仕事をしていてもいつまでも責任ある仕事をさせて貰えないままになる可能性すらあります。

そうすると本人に不満が生まれます。周囲は「あんたいつも言い訳ばっかでしょ」と思っていても普通は言わないし、例え言われたとしても本人に自覚がないから理解できず、自分に対する評価が不当に低いと感じてさらに満足度を下げたりする。

完全な悪循環。これで転職したとしても転職した先でも同じ展開しか待ってない。何しろ習慣化していて自覚がないから。



生活習慣病みたいなものなので、簡単な事で改善はできるのです。






LGBT

2017-01-08 10:55:00 | 
今までは明らかに色物扱いだった、性的不適合者。

その良し悪しを言う必要は一切ない。良いも、悪いもなく、ただ、そう言うことなのだ。

あなたが、男であり、あなたが女である。あなたが日本人であり、日本語を話す。髪の色が、目の色が、体が、顔が・・・。つまり生まれつきのものという理解をすべきなのだ。

しかし、人間というのは、自分の知っている世界が、自分の価値観を作っているから、全く未知の事象や出来事については、その理解の範囲を超えてしまう。この時に大きく二つの反応がある。

一つは、それを排除したいという反応。もう一つは、それを理解しようとする反応。

LGBTで悩んでいて、カミングアウトするだとかという話題になるのは、実は多くの人たちが、未知なものに対する過剰とも言える排除反応を起こすことを恐れているからだ。


LGBTであることは、生まれ持ってのことというのは若干強引かもしれないが、真剣に悩んでいる人の多くは、生まれ持っての人たちである。


「最初は、何かわからないけど、違和感。自分が男であること、自分が女であることにしっくりこない感覚がある。」というところから始まるようで、それをごまかして生きている人もいれば、ある限界を越えてしまい、自分ではどうしようもなくなってしまう人もいるようである。


LGBTを単なる性的倒錯と捉える人もいるが、必ずしもそうではない。



彼らが、なぜカミングアウトするのか、またそれをなぜマスコミは報じるのか。



それは、先に述べた、社会不寛容の問題があるからである。



不寛容というと社会の方だけに責任があるかに思えるが、人間は誰だって未知のものに対する驚きはある。前述の通り大きくふた通りの反応があるのだが、まだ大半は拒絶反応であることは否定できないだろう。



ジャーナリズムは、LGBTというものの正しい理解を促す意味で報じるし、LGBTで悩んでいる本人たちも、社会が違和感なく受け入れてくれることを望んでいる。望んでいると言っても、何かをして欲しいというのではなく、ただ単に、理解がないまま拒絶しないでと言っているに過ぎない。



LGBTに対して拒絶反応をしている人たちは、自分が例えば日本人という存在を見たことも聞いたこともない国で、自分がただ自分であるだけなのに、周囲から拒絶されるということに対する絶望や恐怖を想像してみるべきだろう。




日本という中で安心して生きているからこその鈍感というものがある。それに気づいて、自らが極めて少数派になってしまった場合のことを想像して欲しい。そして髪が黒い、目が茶色、背が低いという身体的理由だけで拒否されたときの自分の中にある自己防衛と自己否定について想像して見て欲しい。それがどれほど心の底に澱となって重く残るか。